Up 遠出 作成: 2016-11-22
更新: 2018-12-23


    狩猟は,遠出である:
      松浦武四郎 (1860), p.735
    その川 [石狩川] すじ凡そ六,七日を溯り行てウリウ [雨竜川] といへる支流(えだかわ)有て ‥‥ 其川筋に住ける者にて,兄はイコトヱと云ひ,其弟をカニクシランケと申。
     ‥‥
    山野に獵して豪羆(ひぐま)猛(ちょう)(おおわし)を獵獲(とり)ては是を濱邊へ下し、米、酒、煙草または古着の類ひと取かへ‥‥
     ‥‥
    朝に石狩岳の方に行かと思ひの外、夕にトカチ(十勝)、ユウバリ(夕張)、シヤマニ(様似)の岳々を経廻り、アカン(阿寒)、クスリ(釧路)、テシホ(天塩)の嶺まで馳せ歩行き、僕のコンラムと五頭、八頭の豪鵰猛羆を得ずしては歸らざりし‥‥

      同上, pp.756,757
    石狩上川なるヲチンカパといへるは、(かの)カモイコタンよりも二日路餘有て、船程凡十七、八里もと思はる處なるが、此處に住しける土人ブヤツトキと云ふ當年五十二歳、‥‥
    常に山野に走り廻りて、唯獵業を好みて,運上屋の(かせぎ)の間には,唯熊を追てはテシオ川へ越え、鹿を追てはトカチ、ユウハリの岳にまでも堅雪の上を渉り行くこと(くらい),隣の如く、
    朝に家を出ては夕はサヲロ トカチ領なり に夜を明し、またのタはクスリ、トコに越るをもことゝも思はず、
    足跡さへ見當りなば一疋にても是を取り迯(逃)せしと云ふことなかりしが、‥‥

      砂沢クラ (1983), pp.10,11
    私が、まだ小さかった四歳の夏 (明治三十四 [1901] 年) のことです。
    私は母におぶわれ、父に連れられて、旭川からヌタップカムイシリ (神の山=大雪山) を越え、佐呂間の猟場をめざして歩いていました。


    よってつぎの言い方は,ミスリーディングである:
      高倉新一郎 (1974 ), p.75
    猟場は部落を単位に決められていて、他人が侵すことを許さなかった。
    もしも他の猟場で猟をする必要がある場合には、あらかじめ了解を受け、猟物の一部を贈った。
    猟物を仕損じて逃がした場合には矢に持主の印が刻まれていて後にこれをとったものはその矢尻の持主に挨拶せねばならなかった。
    熊が大きく、肉を持ち帰ることができない時は木幣を作って番をさせて帰り、応援を得て持ち帰った。

    ミスリーディングだというのは,「猟ができるところは決まっている──自分のなわばりの中だけ」と読めてしまうからである。
    正しくは,「他部族がなわばりとしているところでは猟はできない」である。

    蝦夷地は,部族のなわばりで分割されてはいない。
    なわばりが相互認知されていた地は,広大な蝦夷地のほんの一部である。
    即ち,人口密度が大きい地域 (日高の沙流川流域など) において,獲物をめぐって互いに争わないよう,なわばりが設けられたということである。

    今日,「猟場は部落を単位に決められていた」のことばは,「イオル (猟場)」の言い回しを以て,ひとり歩きするようになっている。
    注意すべし。


    引用文献
    • 松浦武四郎 (1860) :『近世蝦夷人物誌』
      • 高倉新一郎編『日本庶民生活史料集成 第4巻 探検・紀行・地誌 北辺篇』, 三一書房, 1969. pp.731-813
    • 砂沢クラ (1983) :『ク スクップ オルシペ 私の一代の話』, 北海道新聞社, 1983.
    • 高倉新一郎 (1974 ) : 『日本の民俗 1北海道』, 第一法規出版社, 1974