Up 「蝦夷地・和人地」区分の無意味化 作成: 2018-12-04
更新: 2019-01-02


      高倉新一郎 (1959 ), pp.181-185
    箱館から長万部に至る地方はすでに昆布場として多くの和人が永住し、すでに和人の世界になっていたが、
    西蝦夷地も、歌棄から小樽内に至る地方は急激に開け、
    岩内・余市・小樽内などは和人の一大集落を形成し、漁場の施設も改良されて行った。‥‥‥
    安政元 [1854]年幕府が蝦夷地を再直轄し、
    今度は主として西蝦夷地の経営に力を入れ、
    三 [1856] 年、大網一統に付金一両の冥加金を納付させ、それで貯穀をして小漁民の救済にあてることにして大綱の使用を公認し、
    箱館から蝦夷地に入る手続きを簡単にし、
    長万部・寿都間の黒松内山道、磯谷・岩内間の雷電(ライデン)越、岩内・余市間の稲穂(イナホ)山道等を開鑿し、
    従来和人の婦女子の通行を禁止していた積丹半島神威岬沖の航行を認めると、
    出稼人は続々と渡来して、
    文久元年(1862) には山越内関所が無意味となり、
    元治元年(1864) には長万部が、慶応元年(1865) には小樽内が、場所請負人を廃して村並みとなる様になった。
    東蝦夷地の発展は西蝦夷地程ではなかったが、出稼ぎする者は次第にふえ、
    安政元年には樽前付近に箱館や南部から鰯漁に出稼ぎする漁小屋が多く建ち並んでいた。

      砂沢クラ (1983), pp.137,138
     私の夫はユーカラ (長編英雄叙事詩) やトゥイタッ (散文物語) に名高いオタスツウンクル (オタスツ人) の子孫でした。 オタスツウンクルは、大昔、オタスツ (小樽付近) に住んでいた心のよい、霊力を持つ人たちで、よその土地で変わった事が起きて困っていると訪ねて行ってよいように教えたり助けたので、その話がユーカラやトゥイタッ に語られているのです。
     夫の祖先が、昔から住んでいたオタスツを離れ、伏古コタンに住むようになったのは、和人がアイヌの住んでいる土地につぎつぎと入り込んできては、アイヌの困ることや悪いことをしたからです。
     「和人と一緒では安心して暮らせない」と、和人が入ってくるたびに和人のいない奥地へ奥地へと、逃げ隠れするように移り住んでいるうちに、とうとうウェンモシリ (悪い国土) と呼ばれる伏古に行き着いてしまったのでした。
     私がエカシやフチたちから聞いた話では、夫の祖先は、まず、オタスツから海辺を歩いて石狩川の川尻まで行き、そこから舟で川をさかのぼり、石狩川と空知川がぶつかっているソラチプト (現在の滝川市) から空知川に入って、その川上の山奥に住んだそうです。
     夫の祖先は、この地を自分たちがやってきた土地オタスツの名を取ってオタウシナイ (歌志内) と名付けました。
    当時は、海辺からオタウシナイに入る道はなく、山にはクマがたくさんいましたし、和人は舟で川をさかのぼれないので、しばらくの間は、アイヌだけの落ち着いた暮らしが出来ました。
    ところが、ある時、祖先のエカシが山へ猟に行き、炭山を見付けて和人の役人に教えたので、炭山を開くための道がつき、炭を掘る囚人たちもたくさん来て、この土地にもいられなくなったのでした。 ‥‥‥
     夫の祖先は、また、空知川をくだって、いったんはソラチプトに住みました。
    ここは畑の作物もよく出来、山の野菜も魚もたくさんとれてよい暮らしが出来たのですが、まもなく鉄道の線路をつけるため囚人たちが入ってきておられなくなり、こんどは石狩川をさかのぼって伏古に来たのでした。



    引用文献
    • 高倉新一郎 (1959 ) : 『蝦夷地』, 至文堂 (日本歴史新書), 1959
    • 砂沢クラ (1983) :『ク スクップ オルシペ 私の一代の話』, 北海道新聞社, 1983