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高倉新一郎 (1959), p.141,143
当時蝦夷の生活は次のようなものであった。
春,
一月から五月頃まで、鰊・鱈・鮊等をとり、干魚又は締粕に製する。
独立して行うものもないわけではなかったが、多くの場合運上屋もしくは会所の下で働く。
三月から七月にかけて積取船が来るので、荷造して積出す。
夏、
五月頃から
男は海鼠を引き、
女は食料の草をあつめ、椎茸をとり、粟稗を蒔付け、アツシ用の木皮等を剥ぐ。
七月になり男女総出で昆布をとり終ると、
男は、海上穏かな節は海鼠を突き、帆立貝を引き、時化の時は山へ入って会所用の薪を伐り出す。
女は布海苔などをとる。
昆布・煎海鼠・帆立貝・布海苔などは会所に出して日用品と交換する。
秋、
女は粟稗を収穫し、アツシを織って冬仕度をする。
九月になると鮭をとる。
十勝では鰤がとれた。
冬、
男は猟のために山に入る。
海岸の者はオットセイその他の海獣をとる。
一方漁船を作り、網をすいて春・夏漁の用意をする。
又榀縄をない、
女はキナ [蓆]・アプスケ [簾]・アツシ等を織る。
生産の余りないものは蝦夷が銘々勝手に自分の用具でとり、自家用に供し、もしくは貯えた後は、これを交易に出した。
まとめて出すこともあれば、その時々に交換することもあった。
‥‥
鰊・鱒・鮭漁は会所が直営で行い、蝦夷はこれに雇われた。
又会所の薪出しも、報酬は与えられたが、半ば義務づけられていた。
会所・番屋の飯炊・雑役・馬引・木挽・鍛冶・船子・炭焼・渡船守等は皆蝦夷を使役し、旅人の道案内・人足等も蝦夷を使った。
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引用文献
- 高倉新一郎 (1959) : 『蝦夷地』, 至文堂 (日本歴史新書), 1959
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