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高倉新一郎 (1959), pp.11-14
アイヌにウイマムという行事があった。
平生猟をして畜えて置いた毛皮類を携え、ウイマム=チプと呼ぶ特別飾った船を仕立て、隣国まで行き、隣国のニシパに目見えしてこれを献上し、隣国のニシパからは手篤い待遇を受け、米俵その他の珍らしい品物を得て帰郷し、郷里の者に振舞い、その尊敬を得たということは、種々の伝承に語り伝えられている。
この際、ウイマムというのは恐らく「お目見え」の転訛したもので、日本語から出たものであり、
こうした行事は松前藩とアイヌの酋長との間に久しく行われ、松前藩がアイヌを統治する重要な手段となっていた。
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松前から見ると彼等に服従を図る機会であり、アイヌから見ると松前の珍物を獲得する交易手段であった。
その関係は小規開な朝貢を思わせる。
こうしたことは松前に限らず古くからあったことで、渡島の蝦夷が朝貢に来たことはしばしば歴史に見えており、その贈物が主として、アイヌがウイマムに用いたように毛皮であったであろうことは、延暦二十一年(802) 六月、渡島蝦夷が来朝貢献するところの雑皮を私に買取る禁制を申厳したことでも察せられる。
こうした朝貢は決して京師においてばかり行われたのではなく、例えば出羽の国府等でも行われ、朝廷の勢力がおとろえた後も、奥羽地方の豪族と蝦夷島の蝦夷の酋長との間に続けられて来たものと思われる。
ことに津軽の北部に勢力を持ち、鎌倉幕府から蝦夷管領の職を与えられていたと称する安東氏との間にはかなり盛んに行われたと思われ、史料としての価値は疑問視されてはいるが、足利中期のものといわれる「十三往来」には、安東氏の居城であった津軽の北端十三湊に「夷船京船」蝟集して大いに賑わったと記し、寛文十年(1670) 津軽藩士が西蝦夷地を探った時、その地方のアイヌ達が、かって津軽地方に交易に行ったことを記憶していて、その当時を回想しなつかしがっていたという。
その関係が、足利時代の末、安東氏が南部氏に追われて対岸松前に移ると、松前に移され、
それが、安東氏が失地を恢復するため秋田の同族と協力して南部氏と戦っている暇に、上ノ国に力を養っていた蠣崎氏すなわち後の松前氏にその実権を奪われてしまうという結果になったものであろう。
これに似た関係は、樺太においては黒竜江口付近に住むサンタン人、千島においては北海道蝦夷と千島の蝦夷との間にもあった。
蝦夷地が開かれるべき素地はすでに古くから存在していたのである。
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砂沢クラ (1983), pp.34-36
祖父のモノクテエカシが、いつも聞かせてくれた孫じいさん (曽祖父) の、そのまたじいさんの時代の話です。
むかし、むかし、アイヌたちは毛皮を船いっぱいに積んで遠い海を渡り、アトゥイヤコタン (海の向こうの国=大陸) へ行っては、宝物や着物、食べ物や酒と換えて帰ってきていました。
ある年、私たちの祖先のおじいさんが親せきを引きつれて海を渡って行きましたが、しばらくして下男が一人だけ、やっと息をするようにして帰ってきました。
下男は「外国へ着くと、ご苦労と酒を飲まされたが、毒が入っていて、みな、眠るように折り重なって死んだ。私は飲まなかったので、どうにか船にたどり着き、神のおかげで逃げ帰ることが出来た」と言いました。
このことがあってから、アイヌはアトゥイヤコタンへは行かず、ヤユンモシリ (わが国) の青森 などへ行くようになり、酒を飲まされても、死なないで帰ってくるようになったのだそうです。
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引用文献
- 高倉新一郎 (1959) :『蝦夷地』, 至文堂 (日本歴史新書), 1959
- 砂沢クラ, 『ク スクップ オルシペ 私の一代の話』, 北海道新聞社, 1983
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