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庭訓往来抄

(抜粋)

寛永以前の注記。()内は新たな注記。

庭訓往来(ていきんのおうらい) 

右、庭訓と名くるは、伯鯉魚庭を廻りて詩礼之訓を問ふに本づく也。鯉魚の庭を過ること已に二度也。故に私に之を二庭訓と謂ふ。鯉魚、童蒙にして聖父之庭の訓を受く。蓋し此書童蒙之人に示さんが為め也。然るに以て十二月を分て之を制る。故に文章は時節之風物を記す也。官位に依て筆位の文章を宣む也。后代に之を畏るべし。君子は此書を以て官の高卑之上に書様有ること、次第之を弁ずべき也。往来とは辞の往来歟。或は一書彼に往き、一書此に来るの義也。又文の返事有るに依る也。或は古往今来を云ふ義これ有る也。(庭訓を、「父が子に与える教訓」ひいて「家庭教育」と、現代では解している。)


朔日元三の次を以て急ぎ申す可きの処(さくじつがんざんのついでをもっていそぎもうすべきのところ) 

朔は蘇也、生也、革也。推して知る可し。晦は无也、灰也。灰は死也。一月終死之義也。日月は地神第三、天津彦火々瓊々杵の尊の御宇より始る也。元とは始也。且を云ふ也。三は歳月日の始め也。三日を用ることは上古には正月の祝を廿日に及ぶ也。中比より、余りに長き故に、十五日又は三ヶ日に縮むる也。急とは君礼を早るを云ふ也。△志賀寺の聖人、二条の院の后を御覧あつて、恋の病となり玉ふ時、二条の院の后を寺へ登せ御申ある時、聖人の后の手を取て歌に曰く、初春の初子の今日の玉箒手を取るからにゆらく玉のを。亦后の返歌に曰く、いざさらばまことの道にかないなば我共ないてゆらく玉のを。△正月初子の日玉箒を百官に下さる、融く玉の緒とは延命千秋万歳と云ふ。便疏論語に曰く、朔は蘇也、革也、あらたまると読む也。(「元三」は、年の始、月の始、日の始の事で、つまり正月朔の事。)


人々子の日の遊びに駈り催さるゝの間(ひとびとねのびのあそびにかりもよおさるるのあいだ)

人々とは公家殿上人也。子の日は正月初子也。摂家には初子に南都に出づ、風雨雪霜に犯されざる為なり。又、泰山府君を此日祭る也。泰山府君は南極寿星の老人の事也。或は初子に祭ることは、天子は庶民の上、子は十二支の上也。故に天子に比して祭る也。祭過れば公卿各禁中より東に出て詩歌管弦を用て遊ぶ也。老松に仍て腰を摩り、又三尺の稚松を根引にして五色の糸を以て箒に結び、身を摩で座敷を掃ふ也。是万歳の齢を保つ可き義也。子の日の詩に曰く、松根に椅て腰を摩れば千年の翠手に満てり。同く歌に曰く、子の日する野辺に小松の无かりせば千代の様に何を引かまし。又正月一日より、七日まで日定る也。鶏狗猪羊牛馬人、八日を穀日と曰ふ。荊楚記に見えたり。或る書に曰く、七日を人日と云ふ、五節の初也。節は若菜の節と為す、此日七種の菜を作り之を食する則んば人病患无き也。七草は、芹、薺、勤、荊、箱平、仏の座、田苹、須々白、此が七草なり。又、芹、薺、五行、田平子、仏座、須々子、恵(草冠)、是七草也。子の日と人日と一に用ること、中古より以来也。又、正月七日、三月三日、五月五日、八月一日、九月九日、皆悪日と為す。此日蚩无を調伏する也と云ふ。△菅丞相の詩に曰く、松根に倚て以て腰を摩れば、風霜の犯し難きことを習ふ、菜羹を和して以て口に啜れば、気味の克く調ほることを期す。△家持子日に作る、初春の子の日の今日の玉箒手に取るからにゆらく玉の緒。△玉箒の一説には山鳥の羽を五色の糸を以て結て、天子の后の正月初子に簪をなで玉ふ、是を玉箒と云ふ也。△七草歌に曰く、芹薺五行ハコベラ仏の座シラナタナズル此や七草。亦、芹薺五行田平子仏の座須々白箱平等此や七草。△子芹、丑薺、寅五行、卯箱平、辰仏座、巳土筆(シラナ)、午恵(草冠)(タナヅル)、未土筆、申仏座、酉箱平、戌五行、亥薺。買嶋詩に曰く、鶏既に鳴て忠臣旦を待つ、鶯未だ出ずして遺賢谷に有り。(子日遊は、春の野に出て若菜を摘み、小松を根引きする、など、歌や詩の題ともなり正月の行事の最たるものとなっていた。)


谷の鶯の檐の花を忘れ(たにのうぐいすののきのはなをわすれ)

言は、鶯は我宿の寒に依て、人家は暖にして花の咲くを忘るに似たり。谷は寒しと謂ふ可きが為なり。花は、唐には李也、日本には桜を曰ふ、爰には梅を曰ふ也。


草鹿円物の遊(くさじしまるもののあそび)

草鹿は仁王八十三代土御門御宇正平年中に、頼朝富士野御狩也。此時、牧狩稽古の為、鹿を藁茅等を以て作り、足无く胴より上計也。頭を堋に向けて尾を射手の方に向て射る也。足を无くすること草深くして、鹿の足見る可からざる故也。背を見することは、北(にげ)る形也。円物は皮を以て円く張る也。御所の的也。何れも布皮を堋とす、布皮は色々青く七野にすると云へり。又的之表裏に円相を回し、裏に鬼の字を書く也。的は蚩尤が目を象る也。南山にして蚩尤を攻め伏する也。故に南山と書て南山(あづち)と読む可き也。


恐々謹言(きょうきょうきんげん)

敬白は、謹言より上也。又、頓首は至て敬恭也。墨黒に真に書くは、賞翫也。恐々と書く事、俗家より出家へは恐々敬白と書く可し。其の余は、真草行の上中下有り。被官には恐々と書く可からず。恐々謹言の字、草に書く可き也。


正月五日(しょうがついつか)

恐々と書くより、三行(くだり)奥に書く也。


左衛門尉藤原(知貞)(さえもんのじょうふじわら)

官位唐名等、職原に在り、官を姓の上に書くことは、官を賞翫之義也。藤原、仁王三十九代天智天王の時、鎌足の大臣始て藤原の姓を賜ふ也。△判は貴には右、卑には左、同輩には下に書く可き也。○或は曰く、藤原は仁王卅九代天智天王の時、鎌足の大臣の母、玉門より藤生じ、日本国に蔓こる、花咲くを(異本「花咲くと夢に」)見て懐妊して生む、七日と云ふに、白狐鎌の如き物を、来て枕上に置く、仍鎌足(異本「鎌子」)と号す。天智の時の人、其先、天児根の命の末也。入ル鹿の大臣を誅する也。


謹上(きんじょう)

謹上とは賞翫には日付より一字上て書く可し。同輩には日付に双て書く。卑は一字下て書く可き也。○名字を書くも少し料紙の端に書く可し。位の事は上に同くす可き也。


石見守殿(いわみのかみどの)

殿の字、被官等には草に書く可し。上中下有り。内を封ずる事、隠密の状は、礼紙を略して封ずる也。其上に名字官許(ばかり)書く可き也。○状の上は之を包む事、上下の封じ様、上短く下長き也。上書は至て賞翫には、肩に書く。縦へば進上小野大和守殿、御宿所、藤原秀勝、裏には新里紀六と書く可き也。官途すれば姓をば書く可からず。官と名乗りと面に書く可し、裏には名字計書く可し。常の賞翫には、進上、小野大和守殿、御宿所、秀勝と書く可き也。真草行有り。又、状の上を包む事、進上、謹上、書くこと有る可からず。名字許り書く可し。但し同名に紛れば官に仮名を書く可し。御宿所をも書く可からず。我が名は名字計を書く可し。其れも同名粉れば、仮名に官を書く可し。名乗書く可からず、裏書は有る可からざる也。若し文ならば面に小野大和守殿御宿所、裏に新里紀六と書かる可き者也。○我官名乗判書く事は、縦へば正月一日刑部大輔高秀判と書く可し。无官ならば、氏を書く可し、縦へば文屋の高秀判と書く可し。亦、折紙は捻文より略義也。裏書无し。進上、謹上、書くこと无し。日付の下に名乗判を書く也。官名字書く可からず、名乗判の肩に折紙に限り、名字官途仮名を書くと云ふ説有れども、当世は書かざる也。畳目の上に名字仮名を書く也。名乗は書く可からざる也と云ふ。△新里紀六とは、上野国さゑきと云ふ処にて、此書を作る也。彼の左貫に、新里と云ふ名有るに依て、此に書す計也。定るの名に非ざる也。


改年の吉慶、御意に任せられ候の条、先づ以て目出度覚え候(かいねんのきつけい、ぎょいにまかせられそうろうのじょう、まづもってめでたくおぼえそうろう)

歌道には改年と読む也。目出とは、言は、昔し天照大神素戔烏命と天下を争ふ時、天照大神は岩戸に引籠り給ふの間、天下七日七夜暗時(異本「時」なし)と成る也、此の時諸神相談して、岩戸の前に於て万神楽を為し給ふ時、天照大神面白く思食し、戸を少し開て御覧有る、其時大神御目を出すを見て、諸神喜び目出しとし給ふ。是より始る也。太刀雄尊岩戸を取り空に抛つ、是より天下明也。其戸信州戸隠に落る也。故に戸隠と云ふ。太刀雄、今は常州志津の明神是也。△改年のとし立かへる朝より、またるゝものは鶯の声。△世間一百七年九万二千四百八十六年暗穴道と成る也。△七日七夜、其間の久しき事、七万三千三百五十余ヶ日也。


青陽の遊宴、殊に珍重に候(せいようのゆうえん、ことにちんちょうにそうろう)

青は東色也。言は、陽気東より発るの間、青陽と云ふ也。珍重は翫(よろこ)ぶ也。爰には二字ともに翫ぶ也、念比之義也。△珍重とは教経に曰く、尊重珍敬と云ふ、文在り、其を珍重と云ふ也。涅槃経に曰く、もてはやすと読む也。


一種一瓶は、衆中の課役(いっしゅいっぺいは、しゅじゅうのかやく)

種は肴也。東山殿より始る也。瓶は甕(もたい)也。瓶子等也。課は役也。言は、用意を為すの義也。△一種一瓶と云ふ辞は、二条殿より東山殿へ鴨を一対進ぜらる、其時に東山殿より御返事に一種一瓶畏入り候と遊ばさるる間、是より面白き辞也、と云ひ、天下に用る也。△課はをうせ也、役はほねをると読む也。言はほねをりなれども衆中にをうせつけると云ふ義也。


一二に能はず(つまびらかにあたわず)

柳文に曰く、一二は落着せざる辞也。爰も次第に是より申す可しと云ふ義也。△一二は孟子には二三と書てツマビラカと読む也。△一をい二をつて。▲一二をチツカタともよむ。孟子に在る也。


醍醐雲林院の花(だいごうりんいんのはな)

醍醐は山階に在り、真言宗也。梅の道士(地の意)也。雲林院は京に在り、是も梅の道士也。雲林(うりん)と読む可き也。▲醍醐寺は聖宝の開山、延喜の御門行幸あつて、花看る処也。▲醍醐山科に有り、真言宗也。▲[雲林院]京に有る也。唐にはウンリンインとよむ也。和にはウリンインとよむ也。(京の花の名所)


花の下の好士(はなのもとのこうじ)

風流の士也。又詩人歌人也。▲[好士]好は公家也。士は武家也。△好の字の心如何にてもあれ其道をよくし、又このむ也。詩歌をこのむと云ふ也。又よくよむと云ふ心也。


宗匠(そうしょう) 

賦物の五字に心有り。宗匠は先達の義也。日本の俗、歌道の達者を指す。▲[宗匠]このむねをあかしたくみにものをするを宗匠と云ふ也。


和歌の達者(わかのたっしゃ)

和は本朝也。本朝は歌を以て其の懐を述ぶ。古今和歌集の序に曰く、素戔烏の命、出雲国に向う時、三十一字の歌有り。歌に曰く、八雲立つ出雲八重垣妻籠て、八重垣作る其の八重垣を。仁王と成て之歌に曰く、灘波津に咲くや此花冬籠り、今を春辺と咲くや此花。是の歌は歌道之父也、と云ふ。▲[和歌]やわらぐる程に歌を和と云ふ也。和同の語の故也。歌道の起は出雲国ひの河上と云ふ処也。▲[雲]紅紫緑五色也。▲[出雲]是は神代の歌の父也。△稲田姫の返歌に云く、日も暮れぬさぐさめのとじはや出でよ、心のやみに我まよはすな、是は仏の卅二相也。一つを除くは我也。△三十一字は、仏三十二相を表し、一を除くぞ我也。▲[とじ]そさのをのこと也。都児。△素戔鳴の出雲国を御通の時、てなづち、あしなづちと云ふ祖父、祖母在り、其の子を稲田姫と云ふ也。政事に彼の姫を犠に備ふる也。其時祖父、祖母、憂深し。是を素戔鳴御覧じて御助あり。其時彼池に舟を浮べ、船中毒水を入れ、舟をかざり、其の上に彼姫を備へ玉ふ時、毒蛇水を食て則死す。又説に、とつかと云ふ剣を以てきるとも云ふ也。


詩聯句(しれんく)

詩は日本には天智天王より始る也。唐には文選に曰く、李陵、字は小卿、初て五言の詩を作る。或は毛詩を以て始と為。詩の字は、摩竺両聖人、三乗十二分教を白馬に負せて、漢の明帝の内裏寺に置く。之に依り白馬院と云ふ。其の後寺を以て白馬寺と号す。寺に忍び恋の心を隠して、示し合せて詩之字を語り取れば、寺の言と書て、二字を一字と作る也。聯句は、韓文を以て始と為る也。▲[置]永平年中也。△[摩竺]摩竺、摩謄、竺法蘭也。三乗、菩薩、声聞、縁覚仏也。


紙上(しじょう)

紙といふ字を糸篇に書くは、漢の代に葵倫、将作大監と為て、布衣を擣て、以て紙を造る。繪帛に代て、今に至るまで之を伝ふ、昔は繪帛を使て文を書く。日本伊豆衆禅寺が初也、と云ふ。


弾正忠三善〈尹陳〉(だんじょうのちゅうみよし)

▲[弾正忠]大小に正六位上下也。旧は諸侯司代也。弾正忠とは京極、赤松の二家より持也。▲[三善]氏也。洛中をあつかう官也。▲大弾正忠、相当正六位上、唐名侍御史、小弾正忠、正六位下。


大監物(だいけんもつ)

▲大小六位、之に禄す。▲大、王城四門を守る也。少、城門郎唐名也。六位、之に任ず。


菅家江家の旧流(かんけごうけのきゅうりゅう)

菅は光仁天王の御宇也。先祖分明に在らず。但し古老伝て曰く、文章博士是善が兄は菅原の院と申す也。黄昏の程に前裁を見るに、五六歳の小童有り。容顔美麗にして只人に非ず。是を呼び、向て聞て曰く、君は誰人の子ぞ、何処より来る、と問ひ給へば、児答て曰く、我は是親も无し、願は菅相を憑み奉る、と云て、則ち子と為り、天王に詣して軈菅姓を賜ふ。然るに才智日に新にして生年七歳と申に始て詩を作り給ふ。菅丞相は上野高田庄、白雲山の下に菅原と云ふ処に、八月四日に化生す。故に今に足跡彼の処に在る也。江家の祖は吉備大臣也。大江の千里是也。故に日本の儒道は菅丞相、吉備の大臣也。▲[古老]朱印悪也。只老人也。▲[菅相]是善い。▲[菅丞相]六十醍醐天王の時人也。▲[吉備大臣]仁王四十五代聖武の時人也。△菅家江家の根本は、昔、仁徳天王の御時、伏見の長風三位と云ふ人子を持つ、此時迄は氏と云ふ事もなし。然るに長風大唐も姓と云ふこと在り。姓を二人の子に賜へと申しければ、其時、兄は津国菅原と云ふ処に居住す。故に菅原姓を賜ふ。弟は大江と云ふ処に住す、故に江姓を賜ふ、此兄弟の流也。


未練(みれん)

未練は鍛練に非ざる義也。或は未練と臆病と相似れども別也。臆は人を畏れ、未練は稽古无き者を云ふ也。△百度練を鍛と云ふ、一度練を練と云ふ。


赤面(せきめん)

△赤面は、人は身人の二つが肝要也。腹立つ時、心が乱るゝ処で赤面也。


監物丞源(けんもつのじょうみなもと)

官は職原に見。源氏は仁王五十六代清和天王より、六番目、貞純の親王より始也。仁王五十六代文徳の御子惟仁、源氏の先祖也。文徳の子、本の后きの子惟高の親王。中宮の后染殿の御子は惟仁親王也。兄弟位争あり。相撲競馬之有り。惟仁の者(者に羽)将(よしまさ)、良雄長け三尺に足らず。惟高の名虎の右丞尉七十五人が力也。彼の両人位争に相撲を取る也。祈祷の為、惟仁、比叡山恵亮和尚を憑で護摩を焚く。平生大威徳明王の加護有る也。惟高は高野山柿本の貴僧正を憑で祈祷する也。是も護摩也。惟仁、思食す様は、我は微力也、叶はずと思て謀を以て、母の染殿泪を流す。僧正の前に至て、申し給ふ様は、和尚は祈叶はずして帰り給ふと申し給へば、其時僧正、早勝と思い油断也。其時、恵亮脳を砕く、二帝位に即く、と云々。和尚壇に当て脳を砕て祈る也。故に惟仁勝也、是の故に僧正思にして死る也。本尊は不動也、不動負くる也。僧正は美人の染殿を見て恋の心を起す歟。惣じて恵亮は勝つ可きが定也。其の故に叡山に四王の灰と云ふ物あり。大江山酒点童子灰と為り封じて山に置く也。負ば此の灰を蒔て鬼神国に成可きが為也、と云々。


四至傍爾の境(しじほうじのさかい)

法意には四至に依らず、町段に依り田地を領す可し。武家は宗として四至を紀さる。但し町段は、尤も四至に依る可し。境の事は式目の時は、公家武家の成敗差別无し。又至は方也。即所帯を云ふ也。傍爾は勝也。言は、境に勝を指して炭を埋む也。故に傍爾と曰ふ。境を分事は仁王卅七代孝徳天王の御宇に始て定め給ふ也。京の地奉行は、白殿也。境を記したる書を安秩(正しくは示篇)定と号して持ち給ふ也。△抄に云、四至は所帯也。四方を分る心也。傍爾は四方の境限也。言は四方の境にふんだを炭を埋む心也。


阡陌(せんぱく)

東西を阡と曰ひ、南北を陌と曰ふ。又、市中の街を陌と曰ふ。▲[阡陌]ちまた/\。[阡陌]たて、せばし。[阡陌]なはてみち。[阡陌]立なわて、横なわて。阡陌は内裏より南北千里を阡と云ひ、東西三百里を陌と云ふ。△広韻に曰く、南北を阡と為、東西を陌と為。(阡陌とは、都市の縦横の街路をいう。)


清廉の沙汰(せいれんのさた)

△清廉と正直と似て別也。廉直は人が狂言にも其方はまぎれめされたなどゝ云へば无興する也。▲[清廉]直れん也、文選云、清廉は、言は、検断批判して是を取ては非を去る、喩へば砂を陶て金を得、沙を陶て米を取るが如き也。地下人が入部の人をもてなすを云ふ也。


地下の目録取帳以下(ぢげのもくろくとっちょういげ)

目録は民の戸口を記す書也と云ふ。▲[地下]朝庭よりは、七位八位の侍をば地下と云ふ也。


黍、粟、麦、稗等(きび、あわ、むぎ、ひえとう)

五穀は楊泉物理論に曰く、黍、稷、麦、稲、胡麻也。穀は実也。続也、命を続(つぐ)と云ふ也。


桑代加地子(くわしろかじし)

桑は百姓、畑山畠の畔に必ず桑を種ゑて、其代をも取らる可き也。加地子は年貢の外に地子を取る也。


自由の依怙を存ず可からず(じゆうのえこをぞんずべからず)

依怙とは、我身を娯むを云ふ也。言は、真実の検法を自由に遂げて我は依怙を為す可からざえう也。△依怙とは身を能々たのむを云ふ也。言は、真実の検法を遂げて自由に我依怙をなさしむまじき也。


斟酌の儀有り(しんしゃくのぎあり)

斟酌は取り行ふと読む也。日本の俗、思慮と為るは誤也。


平門、上土門、薬医門(ひらもん、あげつちもん、やくいもん)

平門は扉の上に横木一つ渡すを曰ふ也。上土とは、両方より土を挙ぐる也。薬医は左右に二つ柱を立て、上を重く、地伏の木には銅を地に埋む也。扉无し也。言は、医者の所には人の往来限无し。其儀を以て、扉无き也。故に薬医門と云ふ也。▲[平門]上に木を一本横に置く也。[薬医門]戸びら无し、夜中にも用る処在るに依て也。


学文所(がくもんじょ)

士たる者、学文所を作り、子弟臣に文を学ばしむ可き事肝要也。爰に小倉将監といふもの在り。歌に曰く、読み書きの殊更入るは弓矢取り急度廻文急度注進と有る也と云ふ。


公文所(くもんじょ)

田所の結解(算用・勘定)を成す所を云ふ也。


政所(まんどころ)

▲沙汰を拵ふ処也。(多義で、荘園の管理事務の役所、国司の政庁、遡ると平安貴族の家政・所領の管理職)


贄殿(にえどの)

犠牲を置く所を云ふ也。▲肴を置く処也。


(つぼね)

▲女房の居る処也。


部屋(へや)

▲若党の居処也。


四阿(あづまや)

阿屋は材木を置く所、四方に垣无き也。▲材木を置く処也。


桟敷(さじき)

▲物見の座也。


建(手篇)児所(こんでいどころ)

建児は中間の坐敷也。▲髪を結ふ処也。


土蔵(どぞう)

▲俵物を置く所を云ふ也。


文庫(ぶんこ)

蔵庫は屋に盛るゝを庫と曰ふ、地に貯ゆるを蔵と曰ふ。即ち蔵は深く庫は近き也。▲[文庫]武具を置く処を云ふ也。


玄蕃允平(げんばんのじょうたいら)

平氏は仁王五十代桓武天王の太子葛原の親王始る也。


御下文、御教書、厳重の間(おんくだしぶみ、みきょうしょ、げんじゅうのあいだ)

御下文は将軍より所帯を給ふ時、先づ肩に下すと曰ふ字を書く。其の尾次に如何様の忠節に依て、何れの地、如何程と出、分限を書く、判を袖に陶て給ふ也。又教書は、将軍、官領奉行衆と談合して遣る状也。或は本馬殿より出す状也。惣じて将軍より出す状、三也。御教書、奉書、内書也。此の内に御教書は賞翫也。奉書は、将軍の御意を得、奉行人我名判を居へ、我則与ゆる方に、少く奉の一字を書出す也。内書は、奉行と談合せず、将軍の意計に遣る也。又御下文は、御下文と云ふ三字を書く。其下に御判在り。国司より出すを奉書と云ふ。守護より出すを遵行と曰ふ。代官より出すを、打渡と云ふ也。


津湊(つみなと)

日本に三の津、八の浜在り。筑前国に冷泉の津、薩摩の防(坊)の津、伊勢の穴の津也。浜湊は何方とも不定也。


鍛冶(かじ)

日本の俗、鍛冶に為る、大誤也。然りと雖も、今に改め可からず也。仁王廿七代雄略天王、伊勢国山田原に大神宮を作り震旦より始て渡る也。


木工の寮、修理職の大工に仰せて、巧匠を召し下され(むくのかみ、しゅりしょくのだいくにおおせて、ぎょうしょうをめしくだされ)

官の唐名位已下、何も職原に有り。作事奉行の官也。大工は大概異、下知を為る者也。巧匠と云ふは上手の事也。△木工寮とは神社仏寺又は禁中の材木奉行也。修理職は仏神又は禁中の造栄(営)奉行也。鈎は大日如来、且(金篇)は薬師如来、色(金篇)は文殊菩薩、鋸は釈迦如来、鑿は薬王菩薩、鉄鎚は金剛菩薩観音、壺は阿弥陀、墨は弥勒、糸は地蔵、丈尺は虚空蔵、釘抜は五大力菩薩三思一言九思一万行歟の類也。


陰陽の頭に課せて(おんようのかみにおおせて)

賀茂安倍両氏の重代也。作(何れもの意)朝家にも器として反閇す。御身固と申す事、拝し趨る。暦博士算博士天文道陰陽頭等の司在り。是医陰両局也。暦は天竺に草有り。一日より一葉を生じ、三十日に至り、三十葉を生じ、即ち晦日枯畢ぬ。其后此草の根より丁林と云ふ者出生して暦の道を説く。今の暦の字は、丁林が曰く、と書く也。支那には天元より甲子始也。天元は、天地開闢の年、或は伏犠降誕の年、或は伏犠即位の年、未だ是非を知らず。日本には是を后に子代看と云ふ。丁林が事を引く、故に和国の暦は、子代看と謂ふ。然るに賀茂在真(ありまさ)同く在盛(ありもり)、先祖より暦道を面として、毎年御暦調進す。安倍安氏、有季(ありすえ)は晴明が苗裔也。安倍の泰親が后胤也。当代には天文道を本とし、天変地震此の如し。恠異をとひ侍て、勘文を奉る。但し是は御定め時に随て何も仰付も上意に依る也、と云ふ。


名主、庄官(みょうしゅ、しょうかん)

名主は戸主也。庄官は処の長也。処の入人(いりうど)歟、一庄の庄司也。△名主とは一名の主也。名(みょう)と云ふは、古へ名字ある人の持ちたる処也。今も名字ありて百姓になる者也。


藜民の竈(れいみんのかまど)

庶民、藜は黒くして冠を着けず。故に黒色也。烟に付、歌に曰く、高き屋に登て見れば烟立つ民の竈は賑ひに鳧。延喜の門の詠歌也。


百姓の門(ひゃくしょうのもん)

公家廿氏、武家八十氏の末裔、下て庶民と成る間、百姓と曰ふ。神武天王の太子、四人有り。刹利、波羅門、毘沙、殊陀と号す。刹は今公家也。波は武家、毘は商人、殊は百姓也。


東西の業繁し(とうざいのぎょうしげし)

東(はる)作り西(あき)収むの義也。(東西は方角のことを云うが、ここでは東作西収の意で、春秋の農作業を云う。)


毛を吹きて過怠の疵を求む可からず(けをふきてかたいのきずをもとむべからず)

漢書に曰く、毛を吹く、鷹の道より出る辞也。其身に煩有る時は、毛荒れて居す。其時、鷹の毛を吹て、其の煩所を見れば必ず赤し、毛を吹かざる則しば疵を知らず也。言は、鷹疵无きを、若し疵や有ると吹て求むる如く、百姓等を若し過怠有るとも、大に改めず、必ず謂ふ可からず。刀にも毛を吹て疵を見す義有りと云ふ也。


市町(いちまち)

市は仏作る也。▲[市]一月に六度也。[町]毎日也。△市とは斉の桓公の管仲と云ふ者、市を立始む也。是は大乱をこる時、土民かつゆる、其時市を立て、敵御方打交りとがめずあきないをなす也。△町とは祇園会などの日、立を云ふ也。又、云く、車二両通る程の路をあくるを云ふ也。


辻子小路(つじこうじ)

▲[辻]十文字八方え路をあくる也。


鋳物師(いもじ)

鋳物師は科注に曰く、斯波匿王、優填王の仏を彫像するを聞て、即ち、金を用て像を鋳る。此れ鋳物之始也。日本には神武より始る也。


伯楽(はくらく)

戦国の時、馬を相る人也。是に因て、日本にも馬を相する人を呼で伯楽と曰ふ。乃ち星の名也。此星天馬を主る。故に馬を相する人を云ふ也。実名は孫陽也。△伯楽と云ふは、馬は五姓ありと知る也。木火土金水、是也。木性と云わ、年(鳥旁)毛、倉(鳥旁)毛、栗毛、糟毛。金は蘆毛。火は黒、青。木姓は薬師。火姓は馬頭観音。土、十一面。金は阿弥陀。水は釈迦也。(馬医、もしくは馬の鑑定をする人。)


朱砂(しゅしゃ)

△朱焼は、日々膳六膳にして、七五三縄をはつて清浄にして早旦にたむくる也。其心は知らず。然りと雖も、朱は専ら伊勢国より始る。伊勢国には死人を埋まず、郊外に棄る也。其舎利頭を取て焼きければ猶不審也。六膳は吊(とぶらい)の為か如何ん。一代に弟子は一人也。


弓矢細工(ゆみやさいく)

兵具は何も皇(黄)帝の時始る也。充が戈、和氏が弓、埀が竹の矢、何も黄帝之時の人也。△矢つかの長さ、我手三十二束が本也。又、人に依て十四そく十五そくもあり。但、十三そくとは平生いわざる也。矢を五節にする事は、地水火風空、木火土金水を像る也。筈の名所かこいつるもち、又、こしまき内をばえりと云ふ也。又、矢のまき目の寸法ねたまき五分、くつまき六分、本まき六分、上まき三分。筈三分けらくび三分、巻き目々黒ぬりの筈はこいの節かけたるべし、赤漆の時はしろのなるべし。△小笠原流也。又、矢は三才二義を表する也。三才は、天、地、人。二義は陰陽也。是に依て三尺二寸を用る也。矢の羽の事と*はやり羽前はゆすり、今一はとかけと云ふ也。長さ四寸的矢の羽の長さ六寸也。きほうの羽四寸五分也。


猟師、狩人(りょうし、かりうど)

猟師は狩を為ず、狩の道を知て下知する者也。下知に付者狩人也。


猿楽(さるがく)

四坐の内に金春は、本公家也。其故は仁王卅二代用明天王の御宇、大和国長谷川に壺一つ流来る也。取上て見給ふに、二三歳の童子有り。同く其内に系図有り。披て見るに秦の始皇第二の子也。子細有て流され給ふ也。日本灘波津に有る可しと書留む。用明天王、養育為られ、氏を秦と定め、名乗を河勝といふ。河勝と号するは、水に溺れず人と成る故に河勝と号す。用明天王の左大臣に立つ。位は正二位也。王子、聖徳太子同く卅四代推古天王の接政と成り給ふ。守屋退治の砌、所々にて忠を致し給ふに、守屋を稲倉の城に於て、頸を打つ事も、彼の河勝が故也。河勝が子に氏安と云ふ者有り、其子三人、金衣、金春、満太郎と云て、三人有り。金衣は絶て无き也。第二の子金春は春日の宮仕す、則ち先祖の為に泰楽寺を立つ。此の門前に金春の屋敷有り。其内に天照大神の御霊、八咫の鏡に陰を移し給ふと云い伝ふ也。故に金春の家を円満井と云ふ也。大和山城両国の竹田と云ふ処を知行する也。故に彼家は竹田の在名にして、紋には丸の内に二鷹の羽也。今の宮王は氏安が第三の満太郎が流也。有時、金春と不和の義在り。其故に大和を出て江州へ下り山王の申楽と成り、日吉大夫と名乗る也。金春の形義を引替て、近江懸とて謡の節、拍子等まで替る也。金春が許すを以て大和へ帰る時、弟を近江に留置く。金春の流を日吉大夫定置きて、我は大和へ帰り、本の満太郎の役を務む也。氏も名字も惣領と同じ也。

○観世、保昌と云ふは、児の名也。彼の人々は伊賀国服部殿の子也。彼等兄弟、春日の御霊夢に、春日の神楽衆に参ぜしめ告ること有り。其時奉る故に名字をば服部と名乗る、観世の衆に結崎(夕鷺)と云ふは、伊賀国に在名有る也。保昌をば土肥衆と云ふは、大和国の在名也。是を知行する也。観世保昌の紋は矢筈也。

○金剛、是も児の時、金剛房と申す也。上野国小畑の一党之坂戸衆と申す也。大和の坂戸を知行する也。鷹の羽を割き違へて紋と為也。何も四坐従四位に至る也。四坐、藤の丸を紋と為事は、多武峰の談山大明神の能の始め、大職冠の御子、淡海公不比等、藤原の将棟たるに依て、藤の丸を毎年の能の恩賞に依て下さるる也。位は正四位に上る。今も正四位也。

夫れ申楽と云は、本は春日の神楽衆とて、是六十の楽の調子を司る伶人有り。今は天王寺に祠候して百廿の楽を司る也。何も宿神の一体也。神楽有る時、勅勘の身と成り、流され申す時、神の字の篇を剥り、作り計り書かる、楽の字を楽の音に成さる、故に今に至るまで申楽と書く也。又、猿楽と書く事は日吉流也。猿の字を書くは近江猿楽と心得可し。又猿楽と書付為るは、色々野説有り。内裏又は八乙女達に、山王の使者の猿が通て、子を持たんが為也。能く彼子、物の字を成也。其に依り彼者を山王の手猿楽と定めらるる也。是は用う可からず也。

◎夫れ翁とは、天神六代目の尊に面足の尊、伊弉諾伊弉並に代を譲り御申有る時、地神五代有て六代目には仁王と成んと云ふ証文を進ぜらる、案の如く五代茲(鳥旁)羽葺不合尊神代は伝終る、神武天王の代と成る、是仁王の始也。天神の内、面足尊目出度御代也。故に今に至るまで翁と崇び奉り申す也。翁の面二する事は、面足は身体は竜也。故に阿義の下と二にする事は天地を表す也。故に君神と守る。三波の面は黒き事、陰陽を表す、又、昼夜の二也。是賀志火根命也。是は陰神、面足は陽神也。翁の舞の静なる故に、三波の舞は佐々免共也。此の六代には男女有りと雖も夫婦和合と云ふ事无き也。故に陰陽の所を知らず也。七代目には伊弉諾伊弉並の尊、鶺鴒の挑るを見て心付き給て、男女の語有る也。其次第に依て、神の位も劣れり。結句、仁王也。今は王と云ふ事を知るも有り、知らざろ事、お有る也。

◎夫、千歳歴(ちはやふる)とは御代を立始る命也。地神第三の命天津彦浦々耳々義の命より日月は顕れ給ふ也。彼の命より、夜も昼も年も定め給ふ也。御代の間、卅一万八千五百四十二月(年の意)也。故に君の代を守る可しと云誓ふ也。彼の神と表し奉る也。故に次第に千秋万歳と謂始め給ふ也。此の楽を千秋楽と申也。六十楽の中に最初の楽也。是を本と為る事は、神武より有と雖も中比絶る也。有時、悪霊多して万民悩む事限无し。春日の託宣に曰く、式三番を奏せば軈て止む可し、と有り。故に勅定有り、則ち彼の楽を奏す、則ち成就す。夫より用る也。夫延命冠とは、地神代(第)四彦火々出見の命也。代を修め給ふ事、六十三万七千八百九十二年也。弥目出度其名を引く替て命を延ぶる童と書て、延命冠とは云ふ也。夫、父の詔(韶)とは第五彦諾佐々竹茲(鳥旁)羽葺不合の尊也。御代を治め給ふ事、八十三万六千四十二年也。是、仁王の父也。故に父の韶と号す。此代より御代を修め給ふ事、久し。葺不合尊第四の御子、御即位在る事、辛酉の年也。御年百廿七にして死に給ふ也。御代を修め給ふ事、七十六年、是仁王の初め神武天王の御事也。此の如く仁王と成りければ位も下り命も短く此時釈迦仏入滅より以来、三百九十年に当る、天竺の波斯匿王の御代也。天竺には祇園精舎、月廻長者建立の砌、彼の楽を奏すと云ふこと有り。夫は、釈迦仏の十第弟子各々狂言奇語を延て供養有り、と云々。日本には春日の祭に彼の楽を奏す。十一月二十七日春日の祭礼也。廿六日の夜、旅所に御幸也。渡物在り、百物に百の随兵也。其内に四坐渡る成り。次第の事は、金春、k金剛、観世、宝生、何も志気の時に於て、差抜襴衫(かりきぬ)也。旅所にして礼神の内、式三番在り。伶人は黒冠に撞通し差抜を着る也。夫千歳歴るは一人充也。能の次第は鬮を取る也。又、金春の坐には、伝者有り。聖徳太子の幡竿、又、太子の天竺より之伝授の舎利九十粒計有り。家繁昌の時は多に成る也。又、尼面一面あり。是は天より降ると云ふ説有り。故に天の面と名付く也、と云ふ。

△旧抄の説に曰く、猿楽は日吉大夫より始る也。八百年定命也。百になれば自由自在に有る也。或時、日吉の山王の御前にて猿色々の物まねを致す也。日吉大夫見て、猿のまねをして、后、猿楽と云ふこと在り。又の説には、内裏女房に猿嫁ぎて子を生む、其子お色々の物まねをする也。是より猿楽始る也。△大職冠の御子二人在り。兄は多武峯開山定恵也、弟は淡海公不比等。淡海公の子に、一男左大臣武智麿、是南家也。此末流日野勧修寺江家也。次男は、右大臣従二位の房前は是北家也。摂関家皆此流也。三男は式部卿宇合、式家也。四男は左京大夫麿、京家と謂ふ。▲[淡海公]諡也。▲[不比等]名乗也。△申楽と書く事は、日吉流也。猿の字を書くをば近江楽と心得可き也。△[鶺鴒]世の中にいなをうせ鳥のなかりせば、みとのまぐわへ誰かしらまし。


田楽(でんがく)

入道の楽也。神前に至て高足を蹈む。是の楽は田畠豊饒の祈祷也。


傀儡子(かいらいし)

△詩格梁皐(金篇)傀儡の詩云く、刻木索糸作老翁、鶏皮鶴髪与真同、須臾弄罷寂无事、迅似人生一夢中。△无方居士傀儡歌に、手に取れば自由自在の傀儡も糸切れはてゝ動かざりけり。


琵琶法師(びわほうし)

日本に三比巴(琵琶)有る也。玄象、青山、師子丸也。法師とは地神経に之を引く事也、と云ふ。


県御子(あがたみこ)

(御子は神子とも書く。口寄せや祈祷・祓いなどをして諸国を廻り生計を立てる女性。あるき巫女。)


傾城(けいせい)

列子に曰く、西施心を病て眉を賓(目篇)む。其里の醜人之を見て、之を美とす、帰て亦心を捧へて眉を賓めて、彼が美を知、賓めて、之を賓むるの美なる所以を知らず。西施は越女也。世に絶たる美有り。勾践以て夫差に与ゆ。夫差之を嬖す。国を傾る故に傾城と云ふ也、と云ふ。


白拍子(しらびょうし)

鳥羽院の時島千歳の和歌の舞を始舞也。昔は白き水旱に立烏帽子、白き鞘巻を差す、人皆、男舞と云ふ、中比より烏帽子、刀を除て、白き水旱計着けたり。故に白拍子と云ふ也。▲直に簾中え往来也。△白河院の時より白拍子は始る也。

遊女、夜発の輩(ゆうじょ、やほつのともがら)

纏て夜行、人に逢者也。


医師(くすし)

耆婆の末流也。上に念比に見たり。扁鶺は、周の末、戦国の時名医也。日本には和気丹波両氏相伝也。朝恩に浴す、家業嗜伝す也。


陰陽師、絵師(おんようじ、えし)

陰陽の事は上に在り。絵は日本には金岡画工也。一条の院の時の人也。大納言に至る也。△陰陽は天地開闢以来今日に至るまで陰陽の両歟、是気、日月の出入、星辰の大数、奇星客星雲茅(雨冠)起様、之を記す。似(以)て天下の是非を知る之官也。去は安部の晴明天文博士たりし時、花山院御在位、寛和三年六月廿二日の夜、深更に望み、御心静にして大集経を看読して御座、其経文に之(云)、妻子珍宝、及び王位は、命終に臨む時、随はざる者。唯戒及び施は放逸せず。今世后世伴侶と為て此文を叡して読侍て俄に御遁世を思召し立つ、是も弘徽殿の女御薨ぜられ、其哀情除難きに依ると云へり。晴明其夜天気を伺ひ侍り、天子の位を下され給ふ。相星の気是見たりとて急速に参戴内申す也。既にはや不明の間、御出侍る処、参内たり、是晴明一代の面目、后代の家名也。陰陽師と云ふは天下人の師也。日月星辰を主る也。


禅律の両僧(ぜんりつのりょうそう)

方等部より禅は出る也。達磨、恵可、僧潔(元字は玉篇)、道信、弘忍、恵能也。律宗は、四阿含より出る也。道宣は律師也。日本には仁王四十六代孝謙天王の時、大唐より鑑真和尚渡る也。八宗は、法相、三論、倶舎、成実、律宗、花厳、天台、真言也。倶舎、成実、律宗の三は小乗也。法相、三論、花厳、天台、真言の五は大乗也。倶舎、成実、律宗、法相、三論、真言の六宗は天竺に立る所也。天台、花厳の二宗は震旦に立る所也。倶舎は天竺天親菩薩立る所也、倶舎論是也。成実は天竺可利跋摩三蔵立る所、成実論是也。律宗は天竺菊多三蔵五人の弟子立る所、四分五分等是也。法相宗如来滅后、提婆菩薩出世して阿育大王の為、諸法実相の状を説く、又、阿僧伽師出世して、都卒天の弥勒菩薩を請じ奉る時、夜分に降、天竺の説法所謂瑜伽論等是也、又、護摩菩薩出世して、此宗を説く、唯識論等是也。三論は如来入滅后、竜猛菩提出世して、諸皆空の旨を宣べ、所謂百論等是也。又、青弁菩薩出世して、同く此義を宣へ、文殊馬鳴竜樹提婆羅什等、皆祖師為り。天台は震旦の隋の代智豈(頁旁)大師南岳の恵思大師より、又、恵文禅師と名く。爰に三種の止観籠るは大蘇道場に居、霊山之聴を開発す。法華深義玄義文句等を弘宣する、花厳は、震旦禅門寺花厳和尚立つる所、又、唐代法蔵大師詔を奉て、花厳経を講ず、世界品に至て大地震動す、爰に則天皇后之を貴ぶ、勅を下し、疏釈を製せしむ、此経を施宣所謂花厳是也。蓋し法相、花厳、天台、真言は経に依り、之を立つ。倶舎、成実、三論は論に依て之を立つ。律宗は、一宗律に依て之を立る也。


浄土の碩学(じょうどのせきがく)

方等部より出る也。血脈は大概は廬山恵遠法師、慈愍三蔵、道綽、善導等也。又、両説有り、一には菩提流支、恵龍道場法師、曇鑾大海法上等、安楽集に出づ。二には菩提流支、曇鑾、道綽禅師、懐感、小康法師等と云々、二宗は仏心宗、浄土宗之を加へ、十宗と為す。仏心宗は、如来の親伝、正法眼蔵、涅槃妙心、迦葉より以来、以心伝心の者也。浄土宗は、専ら三経一論を以て、所依を為して立つ。聖道浄土の二門は十念を成就して、三尊来顕を宗と為こと是也。(他本には「三尊来顕、宗為是也云々」とあり、)△浄土の三経は親観経、観无量寿経、阿弥陀経、是也。▲[碩]大也。(「浄土」は浄土教。日本では空也・源信・良忍・法然・親鸞・一遍の流れ。伊京集に「碩学。碩は大也。智者を云ふぞ」)


顕教密宗の学生(けんぎょうみっしゅうのがくしょう)

▲[顕]天台也。[密]真言也。

顕は天台、密は真言。天台宗は南天竺より法を伝来る。音声短し。故に嚢謨三満(なまさま)多と読む。真言宗は中天竺より法を伝来る。音声長し。故に嚢謨三満(なうまうさうまう)多と読む也。(「学生」は、本により「学匠」とする。寺院に住み仏道を修める者をさすが、他に学文ことに外典を修める者、たとえば大学寮の学文の徒をもさす。ここでは前者。「学匠」は、すぐれた学者、の意。)


修験の行者(しゅげんのぎょうじゃ)

▲[験]山川也。

才能无しと雖も行体に堅固なると云々。又は、山伏也。山伏は役の行者の末流也。役の行者は賀茂役公氏也。文武帝の時の人也。年卅余りに舎を棄てて、葛城山に入て居す。孔雀明王の呪を持して、五色の雲に乗り、仙府に優遊す、鬼神を駆逐して、以て使令と為す。今、山臥と云ふは此末流也。修は修正(おこないただし)、始覚の修行。験は、本有本覚の験徳也。始本備て闕滅无し、故に山伏と曰ふ也。△役の行者は仁王四十三代文武天王の時の人也。▲[験]明也。


智者、上人(ちしゃ、しょうにん)

上人は菩薩地也。釈氏要覧に曰く、内に徳智有り、外に修(勝の意)行有り、人の言く、菩薩の若くんば一心に阿耨菩薩を行ひ、心に散乱せずんば、是を上人と名く可し也。


引声短声の声明師(いんぜいたんせいのしょうみょうし)

▲[引声]長すり心也。[短声]切り声也。△声明は、昔五つ眼のある人在也。五の道になれり。刧初梵王、亦は商羯羅天と云ふ也。五面に(を)現ず。五明の論を説き、后面に於て声明を説くと云ふ也。△五明は、一には内明、二には因明、三には声明、四には医方明、五には工巧明也。


藝才七座の店(げいさいしちざのまちや)

藝才は自ら好学するを藝と云ふ。七座は、魚、米、器、塩、刀、衣、薬之七也。▲[藝才]分つ心也、言は我楽む所の物を分ち売る心也。[刀]金物のこと也。(「七座」は「ななざ」とも読む。)


京の町人(きょうのまちうど)

都は仁王廿九代宣化天王の御宇、大和国に立る也。仁王卅九代天智天王の御宇、近江国に立る。仁王五十代桓武天王の御宇、延暦十三年甲戌、平安城に遷る也。彼の平安城は、九重、東西十八町也、南北三十八町也。横小路、一条、正親町、土御門、鷹司、近衛、勘解由小路、中の御門、春日、大炊の御門、冷泉、二条、押小路、三条坊門、姉小路、三条、六角、四条坊門、錦小路、四条、綾の小路、五条坊門、高辻、五条、樋口、六条坊門、楊梅、六条、佐目牛、七条坊門、北小路、七条、塩小路、八条坊門、梅が小路、八条、針小路、信乃小路、唐橋、九条、已上卅八町也。竪小路、朱雀、坊門(城の意)、壬生、櫛笥、大宮、猪熊、堀川、油小路、西の洞院、町、室町、烏丸、東の洞院、高倉、万里小路、富小路、京極、朱雀、已上十八町也。内裏を以て中央と為す。町人之置様、一水、二火、三木、四金、五土、六水、七火、八木、九金也。


淀河尻の刀禰(よどかわじりのとね)

山城に在り。旅人宿所を刀根と云ふ也。▲[刀根]力賃取者也。大夫、唐名也。


大津坂本の馬借(おおつさかもとのまがせ)

江州に在り。駄賃逐(遂の意)者也。(近江の大津・坂本で荷馬を貸して駄賃を取る者。)


鳥羽白河の車借(とばしらかわのくるまがせ)

山城に在り。車賃逐也。河原の者也。車は夏后氏奚仲作る也。(牛車を操って、荷を運び駄賃をとるのを「車借」という。)


浦々の問丸(うらうらのとひまる)

船商人宿所也。▲[問丸]船頭の宿所。(日葡にウラウラの項があり、港々、また海岸の地々(ところどころ)の意に解している。前田本抄によると、「浦々問丸とは定宿也」。港々にある。船の荷を管理し、運送人を宿泊させる業者は、ひろく、金貸し、取立て、委託、請負なども兼業した。それらの人々が問、問丸。)


奈良刀(ならがたな)

△刀は鬼神大夫刀工也。始め云く、紀の氏、名乗は、行平薪大夫、刀を作る時、鬼神出で来て助鎚打故、鬼神大夫と云ふ也。▲[刀工]不審也。(刀、刃物は大和の奈良の名産だった。)


強竊二盗の徒党(ごうせつにとうのととう)

是、式目に有り。▲[強]顕て人の物を取る也。白昼、強と云ふ。[竊]ひそかに取る也。夜中竊と云ふ也。


城郭(じょうかく)

三里を城と云ひ、七里を郭と云ふ也。帝釈より始る也。▲[城]家五百在るを城と曰ふ也。[郭]戸ぐるわを郭と云ふ。又は家七百在るを郭と云ふ也。


一揆せしむる(いっきせしむる)

揆は門也、同也。▲おもむきはかる也。一揆家也。成就也。(現在では、主君に反抗する農民の蜂起、あるいは反乱の意で用いられるが、ここでは、動詞として一致団結するの意。)


水旱(すいかん)

常住の衣裳に非ず、天下旱水を祈らんが為に此の服を着る也。△東坡が句に云、遠人水旱に罹る、王命浮囚を解く。(新注には、旧注には「常住の衣物に非ず」と語源俗解が見えるが、大抵白色で、私服として大人の普通常用したもの、と有る。)


管領、執事、奉行人、之を検断す、所司代、訴状を右筆に賦る(かんれい、しつじ、ぶぎょうにん、これをけんだんす、しょしだい、そじょうをゆうひつにくばる)

畠山の官領の始也。所司代の始は京極殿の内に多香豊后(ぶんご)守は所司代也。細川の道永の家には无き也。△三管領は武衛、畠山、細川、是也。△四職は、山名、一色、京極、赤松也。


巫、八乙女は、裙帯を曳て透廊に舞ひ遊ぶ(かんなぎ、やおとめは、くんていをひいてすきろうにまいあそぶ)

巫、神を降する者也。男を巫と為、女は覡(みこ)と為る者也。(前田本抄に「八乙女は是もみこ也」とあり、神楽の舞を奉仕するミコを、「八乙女」と呼んだと書かれている。「巫」は、神おろしをする神人。易林本節用集に「八乙女 ヤヲトメ」。神楽を舞う時に、その巫女を指すとある。「裙帯を曳て」、裳の帯の左右の余りをたらし、ひらめかせて腰を飾ること。「透廊」勾欄などをつけた廊下。)


調拍子(とびょうし)

土、調に作る。神楽同時に始て之を作る。▲昔、調拍子に土をかく、今は調、よき也。(舞に合わせて用いる振り鈴か。)


湯屋(ゆや)

風呂有り。北嶺の相国寺より始る也。跋(金篇)陀菩薩、湯の音に得道する故に用る也。


和気(わき)

彼の家は典薬也、故に今に至るまで、典薬殿と名く也。内裏西門の前に居す也と云ふ。


丹波(たんば)

彼の家は、即ち施薬院也、と云々。△私云、和気、丹波は医者の氏。丹波とは神代の時、丹波に来る間爾云ふ、医者の始りも不審也。


典薬(てんやく)

典薬、言は、天下十二人、惣一也。十二人典薬は施薬等の衆也。今は断絶也。今に至るまで典薬殿は中良井殿計也。今に京都に栄ゆ。竹田、上池院の両家は、天下十二人の外也。彼の両人は公方様の薬師也。竹田の家は六百八病を司る、薬の銘真に書く也。同包紙の内に煎服の様体、又、禁好物等を散書にする也。賞翫也。封の字、古文に書く也。封の字片許を王(山冠)と此の如く書く也。即ち、山王の二字也。山王を用る事、口伝在り。彼の家は牛黄円の秘伝也。上池院の家には六百八病を司る、薬の銘は草に書す。煎服は包紙の上に記す。即ち、蘇香円秘伝也。典薬は医道の極官也。他人に之を任せず。唐名は大医署、又、尚薬局と云ふ頭也。四節薬草を置く也。種は此の寮に薬の園在り、山谷に曰く、四休居士大医孫君(居の意)肪、此の官に居り、去れば三平二満之説を薬に合る、歴の上に満平の日に臨て用る也。満、平の日より外は休む矣。此官は和丹両氏伝て月次日次の薬を進上する者也。


施薬院(せやくいん)

聖武天王の后き光明皇后より起る。施薬の字、心は医師を習始に、京は七口にして无縁の者に薬を施す。然る后に上品の薬師と名くる也。京の非田院之建立も天下の卑人施行也。△施薬院とは聖武天王の后き光明皇后より始る。千人沐浴の行を召され、我れと湯どのをめさるゝ也。九百九十人也。満ずる時、癩病の者来る、我と湯どのを召され、亦身をねぶりあれと申しければ、如何ともせられず、ねぶられける処に、忽に阿閃仏也。東を指して化し終る也。此后は天然に身香く光明有り。故に光明皇后と云ふ也。


房内の過度(ぼうないのかど)

夫婦之和合也。▲房内の過度の書とて巻物一巻在り。婬乱過の事を記したる者也。△房内とは、廿の歳までは、四日に一度、卅の歳は七日に一度、四十、五十の時は十日に一度充也。


恋慕の労苦(れんぼのろうく)

▲若衆、女房くるい、亦、こいなどして気をからす也。

底本はカタカナ書きだが、ここでは「ひらがな」にして読みやすくした。

(岩波書店刊『庭訓往来・双句集』新日本古典文学大系52を底本としました。)