Up 不文律の意義──規則作成の場合 作成: 2006-01-20
更新: 2006-04-07


    「適当にやる」は不真面目で「規則でガチガチに固める」が真面目,と受け取る向きがある。
    しかしこれは,真面目・不真面目の問題ではない。

    「規則でガチガチにする」は,「トラブル/犯罪を未然に防ぐ」から出てくる形。──つまり,これの以前には,トラブル/犯罪があったのだ。
    説明責任 (accountability),規則遵守 (compliance),情報開示 (disclosure) も,「トラブル/犯罪を未然に防ぐ」から出てきたものであり,トラブル/犯罪がこれより先にあった。

    日本の文化は,「適当にやる」の方。これに対して,「何でもかんでも規則」が,アメリカ。これは,<他者>のない日本と<他者>ばかりのアメリカの差。
    ちなみに,グローバル化とは<他者>を相手にすること。よって,グローバル化は「何でもかんでも規則」を伴う。


    「規則」は,自分を守る目的で他者に対して作る。
    しかし,他者は意表外の仕方で自分を困らせてくる。そこで,「規則」を緻密化する。これの繰り返しで,規則はどんどん大きく複雑になっていく。

    規則は無いに越したことはない。──不都合に対して規則が起こる。不都合がなければ規則は起こらない。「不都合がある」と「規則が起こる」は同値。不都合は無いに越したことはない。よって「規則は無いに越したことはない」。

    規則を考える上で最も重要なことは,「規則の整備・増強」を (「何かいいこと」のようにではなく) 「グロテスクなこと」と感じ,規則が無用となる組織の実現を意志すること。

    「何でもかんでも規則」は,「適当にやる」の阻却。「裁量」を抑制する。
    実際,「何でもかんでも規則」は,性悪説の立場。性悪説の立場では,「裁量」は「悪いことをする」と同じ。

    「適当にやる」の文化にも「何でもかんでも規則」の文化にも,それぞれ良いことと悪いことが表裏になってある。
    両方の良いところがあわせられるのなら最高なのだが,実際に多く目にするのは,「適当にやる」の悪いことを温存して「何でもかんでも規則」の悪いところをとるケース。これは,
    心の<卑しさ>を残しつつ,ものごとの形骸化を進める
    という具合になっている。

    性悪説は,「悪い部分をそれのみでとりあげ合理的に解決する」ということをせず,全体を一律に規制しようとする。
    問題の根本は (薄められることはあっても) 放置され,規則だけが独り歩きする。

    正しい姿は,「適当にやる」の方。ただし,「適当にやる」に乗じて<けしからんこと>をする者も出てくる。そのときは,その者だけを厳格に処分する。「そのような者が将来また出てくることを防ぐ」というスタンスで,全体を不自由にするような規則をつくるのは,最も愚劣。
    「適当にやる」を堂々と主張しそれを行うことが,大事だ。

      確認: 意気地のない組織が,規則を山のようにつくる。