『足跡 : 三井美唄35年史』, 三井美唄鉱業所臨時事務所, 1964.5 から引用
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p.123
炭山としての美唄は炭量炭質に恵まれず,開坑以来遂次良質の炭層より稼行し尽し,最近に至つては低品位,而も此れに加へ薄層若しくは累々たる玉石の為にカッターの切透しも不可能と思われる程の炭層と悪条件が疊重し,毎期の予算編成に当っても赤字は公認の状態でありました。
我々は全員一致協力してこの赤字を最少限度に食い止むる可く必死の努力を払ひました。
然し精炭歩留りの悪さには全く手の施しようがないと言うのが実情でありました。
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同上, pp.124,125
私が三池から美唄の技師長に赴任したのは,昭和27年の暮も押迫った時であった。
赴任に当って私は会社の幹部から呼ばれて「美唄は登川層深部開削のため,二本の竪坑開削が必要だ。君が行って一つこの開発をやって貰いたい」といわれた。
私は非常な希望と期待とをもって,美唄に赴任して行った。
やがて28年の新春を迎えると共に,美唄の長期計画を新に控て登川層開発の立案計画に着手せんとした時,例の113日の長期斗争が始まり,此計画は其の年予定通りに進捗しなかった。
それに加えて開発計画の重大な基礎となる炭量の調査がその当時まだ正確に行われておらず,登川層探査ボーリングが僅に一本あっただけで,而も此のボーリンダは必要なる深度まで到達して居らず,従って是を基礎にして考えた地質構造も炭量も想像の域を脱しない程度のものであった。
比処に於て炭量確認のため急きょ地質調査をする事になり,クレリユウスの試錐機械を購入して,1,000 米内外のボーリングを遂次数箇所に実施して行った。
又一方此のボーリングの進行度合と見合せて,鉱務課,機電課,土建課などの技術部が中心となって竪坑開削の立案計画に着手した。その当時深度1,000米以上の竪坑開削は全国でも診らしく,此の意味に於てこの計画は非常に画期的なものであった。
又それだけに深部に於ける地圧,ガスについて技術上未知の問題も多かったが,関係者は皆この画期的な竪坑削計画の実現と成功とを夢に画きながら,日夜寝食を忘れて是等の難問題と取組んで行った。
しかしボーリングの進歩と共に地質構造の全ぼうが,次第にあきらかになって行くにつれて,残存炭量は最初の予想と期待とに反して次第に悲観的なものになって行き,最後のボーリングによって精密に炭量計算が行われ,その結果この深部開発計画を断念せざるを得なくなった時は,関係者一同の落たんは非常なもので,しばらくの間は,互に口を開く元気もない有様であった。
其の当時美唄は3番上下層,並に一番,二番層の好条件の主力炭層の採掘を殆んど終了し,五番層は玉石と盤膨れのため稼行困難を極めて其の一部を中止しようとして居って,美唄の出炭は品位の最も劣悪な六番層と各所に散存する残炭部門からの出炭とで維持していた。
又,羊歯帯一番層の開発をいそいでいたが,是とても炭量の点と薄層部門のため,美唄将来に対して大きな出炭は望めなかった。
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