Up 沙流場所 作成: 2016-10-08
更新: 2016-10-08


  • Flershem, Robert & Yoshiko, 『蝦夷地場所請負人──山田文右衛門家の活躍とその歴史的背景』, 北海道出版企画センター, 1994. pp.97-100

    「沙流場所は、東は新冠境の厚別から、西は勇払場所境のフイハフまでの二十八キロメートル余りの広さであった。
    古くは佐留太(サルブト)と呼ばれていて、元禄時代の藩の郷帳にもサル・モンベツ・ケノマイの三つのアイヌの集落が記録され、これらを合せて一場所となったもので、古くからアイヌの都と称されただけに、長さ百キロメートルの沙流川主流・支流の流域には、アイヌのコタンがたくさん散在し、二風谷・平取・平賀・ホロサルにはまとまって多くが住み、中でも平取が最も大きくその中心となっていた。
    二風谷は今も面影をよく留め、観光地となっている。

     松前藩は寛永十(1633)年、この地へ金採掘の人を遣したが、その後寛永二十(1643)年藩成立後、最初のアイヌ民族の争いが起きた。
    その原因は余りはっきりしていないが、アイヌと和人間の利害問題が絡んだものではないかと言われている。
    後の隣り場所新冠には寛永時代 (1624-1643) に採金夫の家が四〜五軒あり、場所内から染退(シブチャリ)の金坑までの通路もあり、染退は寛永時代砂金がたくさん採れ、諸国から来た採掘者が、寛文の蜂起当時も数多く働いていた。

     この場所は代々藩士小林氏の知行地で、享保(1716-1735)頃には支勿十六場所に含まれていなかったが、天明四(1784)年頃にはサルは藩の直領となっており、小サルは小林氏の知行地であった。
    天明六(1786)年頃の請負人は阿部屋伝吉で、運上金は四十五両であった。
    阿部屋はこの時新冠も三十両で請負っている。
    また染退は直領を含み倉部屋太兵衛が七十両と、山田太兵衛が三十両で請負っていて、寛政時代沙流・新冠・染退三石は阿部屋伝七が請負っていたが、沙流を除いて皆独立した場所となった。
    寛政十一(1799)年一月東蝦夷地のうち、浦河以東は幕府直轄地となり、知行主・請負人を免じたが、文化四(1807)年幕府は南部藩士を浦河に駐屯させ、沙流場所はその支配下となった。
    文化四(1807)年幕府の直轄が廃止されると、再び場所請負人が請負うことになり、運上金三百三十両(三百二十両三分とするものもある) で福山の東屋甚右衛門が請負い、文政四(1821)年松前氏の復領と共に、明治元年まで山田文右衛門家が請負った。
    その間文政・天保年間(1818-1843) 運上金は二百両で、嘉永・安政時代 (1848-1859) は運上金以外に積金四両、また慶応時代 (1865-1867) は運上金以外に増運上金百二十五両、別上納金四十四両一分永百五十文であった。
    明治二年 (1869) 仙台藩支配下で、十代文右衛門清富の娘婿榊富右衛門が三百六十九両一分永百五十文で請負った。

     産物は鮭・干鮭・煎海鼠・鯨・鱈・干鱈・鰯・魚油・鹿皮・熊皮・熊胆・鷲羽・昆布・(シナ)縄・椎茸などであった。
    また場所の様子は、運上屋は最初沙流川口の現在の富川町にあったが、文化二年(1805)七キロメートル余り離れた日高門別に会所を建てて移った。
    その頃には会所の外に旅宿所二軒・蔵五棟・作業小屋一棟・稼方小屋一棟・鍛冶小屋一棟・(うまや)などがあり、安政元年(1854)頃には旅宿所も四軒・大工小屋・鍛治屋・馬八十頭・船六十八艘があった。
    鍛治屋があったのは、この地域一帯に非常に馬が多かったための特長が出ており、今でも日高地方は名馬の産地で有名である。
    もう一つこの場所の特色として、水田が試されたことである。
    幕府は寛政十一(1799)年から蝦夷地で穀類や野菜の栽培を奨励したが、八王子千人同心が開墾収穫した品目などは前に紹介したが、その折にはまだ米の収穫はなかったようであるが、文化二(1805)年沙流場所番人が水田を開き、新穀を奉行に献じたが、これは蝦夷地における米作の嚆矢(こうし)とされている。
    沙流はまた元禄十三(1700)年に、飛騨屋久兵衛がこの地の蝦夷檜を伐採し、その木目の美しさから、江戸では献上物をのせる台や曲物などに使用され、また家具にも用いられるなど、その後蝦夷檜の伐採販売を請負い、大いに財を成したことで知られている。

     沙流川本流支流の流域にはアイヌの集落が多いが、文化五 (1808) 年頃家数二百三十六軒・人口千十三人 (文政五 (1822) 年人口千二百十五人とするものもある) で、安政三 (1856) 年には千三百九余人となっていて、人口に対して産物が少いため、夏は浦河・三石などへ昆布採の出稼をし、秋には勇払・千歳・石狩まで鮭漁の出稼をし、冬は鹿や熊などの狩猟で過すなど、労働はかなりきついものであった。
    それなのにこの地域にアイヌが多かったのは、沙流アイヌは古くからアイヌ民族の中でも尊敬されていて、目梨アイヌと呼ばれる染退(シブチャリ)から根室にかけてのアイヌとは、言葉や文化にも違いがあったからであろう。
    また松前藩に対しては友好的であり、波恵(ハエ)の首長オニビシと、染退の首長シャクシャインの争いの時も、(第一章 IVの1参照) 藩の意見に従い、藩に反抗するアイヌの撲滅に努め、また寛政の目梨アイヌの蜂起の時もよく防戦し、藩に協力し率先して戦うなど、古くから誇りを持っている人たちで、藩では "お味方アイヌ" と呼び、手厚く遇されていた。
    安政時代箱館奉行村垣範正が巡見した時にも、沙流の乙名親子に玄米二俵を賜るなどしている。

     明治二(1869)年十月沙流場所の門別へ彦根藩が入植し、また仙台藩は維新の際の官軍に対する償いのために、十一月から沙流へ入植した。
    卒族百四十六名 (百二十五名とするものもある) が移住し、その後箱館脱走の幕軍七十名も加わって開拓に当ったが、明治四(1871)年八月返上となったために目的は果せなかった。」