Up | 「ヒグマと遭遇したら」の論理 | 作成: 2024-12-10 更新: 2024-12-10 |
これには諸説がある。( 「熊と出遭ったとき」諸説 ) しかし,その諸説を鵜呑みにする気には,とてもなれない。 なぜか? それらが説く「こうせよ」は,
そう聞こえるので,「それはたまたまだろう」と返したくなる。 本来,ひとの納得する形は,「理によって納得」である。 そこで,理が求められることになる。 このスタンスを,科学という。 一方ひとは,生活においては「科学と疎遠」を流儀とする。 即ち,「権威を頼む」を流儀とする。 <考える>ではなく<信じる>が,ひとの流儀なのである。 この流儀はあぶなくないか? そう,あぶない。 ひどくあぶない。 ひとは,自分が権威と見込む者の説く「ヒグマと出遭ったら」を信じる。 そしてこれは,ひとはヒグマのことを考えることはない,ということである。 ひとは,「ヒグマのことを考える」を,そもそも概念としてもっていない。 これで困るのが,ヒグマである。 殺されてしまうからである。 なぜ殺されるのか? 異形だからである。 異形のことを考えない人間集団は,異形を殺す。 よくよく吟味せよ。 集団は,異形に対しては,これを殺すのである。 ヒグマとは,つぎのように考えるものである:
「ヒグマと遭遇したら」が,理を以て,説かれている。 即ち,「ほぐすの火うちいで、けぶり吹て、何げもなう休らひ居」。 「自分を恐れない者を恐れる」は,科学の知見である。 動物は,これを実践的に用いている。 ──これを用いないとはどうなることかを,想像せよ。 ヒグマは,自分から逃げる者を追う。 これは,「反射」とか「本能」で説明することではない。 相手が自分を恐れる者──したがって,自分より弱く,餌食にできる者──であることがわかったので,追うのである。 「自分を恐れない者を恐れる」は,体の大きさと関係ない。 実際,ひとは,自分を攻撃してくる虫がいたら,それを大いに恐れることになる。 ギャングも,自分を恐れない者が相手だと,何かとんでもない殺人技でも秘めているのではないかと危ぶんで,容易に手を出すものではない。 そして,逃げる相手には,安心して追う。 「自分を恐れない者を恐れる」は,理 (科学的命題) なのである。 |