Up 5.4.1 意味中心主義  


     テクストに反応することを,"テクストの意味に反応する"というように解釈しようとする,根強い伝統がある。それはもともと西欧のものでありわれわれのものではないが,先人がせっせと輸入に努めたおかげで,いまやわれわれにとっても自然なオリエンテーションになってしまった。ここで"自然な"とは,意識に上ることさえないということである。

     このオリエンテーションを図式化すれば,

    のようになる。ここで,枠で囲んだ部分が"心"である。

     プラトンに発すると見なされているこの伝統は,《対象がその都度異なる相貌で現われるにも拘らず,われわれがそれを同一のものと認めるのは何故であろうか?》という問いに一貫してこだわるものである(註)。 そしてこの伝統は,〈本質〉とか〈真理〉とかを以ってこの問いに答えようとすることにおいて,本質主義,真理主義である。

     〈本質〉は色々な言い回しの下で色々に考察されてきた。プラトンは,それを〈イデア〉としてわれわれの〈外〉に理由を求めた。しかし,デカルトのコギト以来,〈本質〉をわれわれの〈内〉によって説明することが趨勢になった。現象学(フッサール)はこの本流の中に位置づく。

     テクストに対してこれの意味を見ようとする発想は,この伝統下のものである。テクストは不安を喚起するものであり,テクストを意味に還元することで安心が得られる。しかも,意味に対してテクストはかりそめのものでしかない。したがってこの伝統は,意味中心主義とも呼び得る。

     〈意味〉を人の〈内〉に実現するために,"(内的)表象"が発想された。《一つの対象がそれの多様な見かけにも拘らずつねに同一のものと認識されるのは,つねに同一の表象がこれに対応させられるからだ》というのがこの場合の論法になる。また,先の図式が

    になる。


    (註) これは認識論であるが,行為を閑却しているわけではない。行為の適切さを認識の正しさに還元するので,認識のみが問題になる。