4.2 《心=傾向性》


     ライルの《心=傾向性》の認識は,つぎのようになる。

     先ず,“心”は探して求められるようなものではない。存在するのは,“心”ではなく,“心”について語るという生活形態である。そして“心”について語るとき,ひとは“心”について語っているのではない。単にその言表によって或る状況を展開しようとしているに過ぎない。

     よって,“心とは何か?”という問いに対する正しい答え方は,“心”について語るという生活形態がどのようであるかを述べることである。実際,“人の心について語ることは,端的に言って,人の生を構成する出来事が秩序づけられるある仕方について語ることに他ならない”(Gardner,1985,pp.64,65)のである。

     “心”の述定がこのように捉えられるとき,それは内的な出来事の報告ではなく,行動に関する hypothetical あるいは semi-hypothetical な言明ということになる(Ryle,1949,pp.50,86-89)。即ち,
      《心的状態について語っているとされる言表は,心的事態の報告ではなく,行動の傾向性の述定である》
     ライルが“心の述定は行動の傾向性の述定である”と言うとき,それは“心”の述定の意義を述べていると理解されるべきである。実際,“心”の述定は行動の傾向性──〈事態−行動〉の連関──の述定としてなされているわけではない。しかし,それの意義は“行動の傾向性の述定”である。

     さらに,《心=傾向性》と規定することには,つぎのような含意はない
      《“心”は〈事態−行動〉の連関のことば(仮言命題:“もし状況が・・・・ならば・・・・のような行動が発現する")で述べられねばならない》
    言い換えると,
      《“心”を語っているとされる言表は,“もし状況が・・・・ならば・・・・のような行動が発現する”という形の言い回しに代えられる》
     ライルは,心理学的行動主義(後述)とは違って,“心”を(仮言命題の形で)操作的に定義しようとしているのではない。実際,“心”を語る言表と仮言命題の関係は,前者が後者で言い換えられるというものではなく,前者が後者を生成する(しかも反省の時点で)というものである(註1)。“心”の操作的定義は不可能であり(註2),ライルがこれを退けるであろうことは明らかである。そもそもライルにとって,“心”は“科学的”に論が展開されねばならないような対象ではないのである。



    (註1) したがって,P.Geach のつぎのような論難は,ライル批判(ライルを困らせるもの)にはならない:
      [according to Ryle] we are invited to regard a statement that two men, whose overt behavior was not actually different, were in different states of mind ... as being really a statement that the behavior of one man would have been different from that of the other in hypothetical circumstances that never arose.
      (Geach,1957,p.23)

      When Ryle (1) explain a statement of an actual difference between two men's mental states as really asserting only that there are circumstances in which one would act differently from the other, and apparently (2) holds that this could be all the difference there is between the two, he (3) is running counter to a very deep-rooted way of thinking. When two agents differ in their behavior, we look for some actual, no merely hypothetical, difference between them to account for this ...
      (Geach,1957,p.23)
    後者((1),(2),(3) は筆者)では,(1) と (3) は正しいが,(2) は誤っている。

     Geach の例は,ライル批判の一つの顕著な型を示している。即ち,ライルの主張には《Pに対して一つの仮言命題が一意に対応する》が含意されていると見なし(誤解し),これを論難するというものである。

    (註2) 実際,“心”を語る言表Pを仮言命題の形に述べ直すとすれば,一つの仮言命題で言い尽くせないことは明らかであるから,仮言命題の連言の形で述べるということになる。これらの仮言命題は,Pの〈外延〉(“もし状況が・・・・ならば・・・・のような行動が発現する”のレパートリー)の表現になるものである。しかし,Pの〈外延〉は,予め定まっているものではなく,生活において生成される。しかも,連言の表現では,各仮言命題が蓋然性の余地がないまでに厳密にされていなければならないが,このような事態は,不可能であると言う以前にナンセンスである。