1 合理主義的オリエンテーション  


    1.1 合理主義

     “合理主義”とは,分析/還元主義,構成主義,論理主義,内包/外延主義,表象主義,計算主義,物象化主義,一般化主義,規範科学(normative science)主義,自律理論(coherence theory)主義,体系主義である。“要素",“構造",“システム",“論理",“推論",“計算",“因果的説明",“機構的説明",“構成的説明”は,合理主義のキーワードである。
     合理主義は,世界に対する説明形式を世界の存在形式と同一視する傾向にある。即ち,説明が合理的であることを理由に,世界はこのようであると主張し,説明が不合理であることを理由に,世界はそのようではないと主張する。(この意味で,合理主義は,合理的説明形式を歴史的なものとは考えない──歴史的に普遍的なものと見なしている。)それは暗黙につぎのような立場に即いていることになる:

      “内的表象”を想定しない心理学はうまくいかない,逆に“内的表象”を想定すればければ心理学はうまくいく,ゆえに“内的表象”は事実である(註)

    (註) 実際,わたしは J.A.Fodor のつぎの言表をこのような意味に受け取る:
      ... we have good reasons to endorse the psychologists' theory even aside from the empirical exigencies that drove themto it. I take it that this convergence between what's plausible a priori and what's demanded ex post facto is itself a reason for believing that the theory is probably true. (Fodor,1978,p.501)


    1.2 主体論

    1.2.1 主体の記述レベル

     数学教育学における合理主義的オリエンテーションと反合理主義-的オリエンテーションの分岐点──言い換えると,両者を共約不可能 incommensurable なものとする契機──は,主体(agent)論である。
     二つのオリエンテーションは,“主体”に対するつぎの二通りの捉え方までは共有できる。即ち,“生活者”と“生体”である。
     “生活者”としての“主体”は,“行為",“感情",“意志",“状況",等々をキー・タームとして捉えられるところのものである。そして,“生体”としての“主体”は,生理的組織の絶えざる変容──生体を含むより大きな物理的システムの変容(:状態が状態を引き起こす変容)の部分として捉えられる変容──である。
     この二つの把捉形態──いわば,マクロ的対ミクロ的──の間には,埋め難いギャップがあるが,合理主義的オリエンテーションは,中間的な記述レベルを挿入する方法でマクロとミクロに連絡をつけるよう,勧める。
     これに対し,反合理主義-的オリエンテーションは,この試みを“文法的幻想”ないし“物象化”のことばで退けようとする。また,この試みに,〈人間=通時態〉に対する不可知論を科学の身分で対置しようとする。

    1.2.2“生活者”の実体的説明

     “生活者”と“生体”という主体の二つの記述レベルは隔絶している。しかしここに,両者をつなぐことにこだわるオリエンテーションがある。われわれはこれを物理主義的オリエンテーションと呼ぶことができる。
     物理主義的オリエンテーションは苛酷なオリエンテーションである。われわれは,能力的に,このオリエンテーションに応じることができない。
     そこでわれわれとしては,“物理主義的オリエンテーションの意図はそもそも何であったのか”と考えてみるとしよう。このとき,
      《“生活者”としての主体についての実体的説明をつくる》
    ことが目指されていた当のものであることを知る。──因に,“生活者”の記述レベルでは,主体の説明は機能的説明(概念的説明)である(註)
     この文脈で,合理主義的オリエンテーションの下,実体的説明を可能にするための実体が仮構される。そして一方で,この仮構をターゲットとする反合理主義-的オリエンテーションが起こる。
     機能的説明は,生活の中から発祥する。実体的説明は,科学的実践によって得られる。

     例.“磁性”は,機能(傾向性)を述べる用語として起こる。そしてこの機能の実体的説明が,“科学的実践”によって求められる。そして今日,この説明が得られている。

    (註) つぎのものは,わたしが部屋の中にではなく外にいたことに対する説明になる:
      “わたしが外にいたのは,部屋の中がひどく暑かったからだ”
    そしてこれは,機能的説明(概念的説明)である。(“部屋が暑いことが外に出ることの理由になるのか?”と問う人は,われわれの言語ゲ−ムの部外者である。)

    1.3 因果的説明

     実体的説明は,事態をある実体の上のメカニズムの結果として説明しようとする因果的説明である。合理主義は,客観主義として,物理的実体への還元主義であり,これのオリエンテーションの下では,事態は実体的な因果関係で捉えるべきものとなる。
     “生活者”の記述レベルでの因果的説明では,“因”として“感情",“意志”に特別な地位を与えた後,これを実体的に説明するという趣向になる。例えば,意志は propositional attitude (PA)(註) (Fodor,1978) として定式化され,“意志決定",“問題解決”,あるいは“情報処理システム(IPS)”の概念の定式化に一役買うことになる。

    (註) “propositional attitude" は,心的状態に対する表象主義(後述)的な説明形式であり,これは,生活の中でわれわれが“心”に言及する形式の直接の模写である。

    1.4 状態と傾向性

    1.4.1 状態と傾向性

     わたしは本論において,“心”の実体的説明において述べられているものを“(物理的)状態”と呼び,“心”の機能的説明において述べられているいるものを“傾向性”と呼ぶことにする(註1)
     またこれを一般化して,意識対象Xに対し,Xの実体的説明において述べられているものをXの“状態”,Xの機能的説明において述べられているものをXの“傾向性”と,それぞれ呼ぶことにする。
     身体は,状態/傾向性を生成する。状態/傾向性の外延(色々な状態の複合/統合)のように身体が成立しているわけではない。
     状態の記述は,物理の記述で構成される。傾向性の記述は,機能(事態の生活的意義)の記述で構成される(註2)。二つの記述は異なるレベルにある。
     そして,《この二つの記述レベルをつなぐ》が問題として成立すると考える立場が,物理主義である(註3)

    (註1) したがってここでは,“あることを考えている”は傾向性である。
    (註2) 《心=傾向性》は,〈人=モノ〉のコトである。
    (註3) 例えば,物理主義の立場では“あることを考えている”に対応する物理的状態が存在する。

    1.4.2 状態/傾向性の認知


     対象Xと認知主体Yに関する
      (1) Xは状態Zにある/傾向性Zをもつ
      (2) Yは,Xが状態Zにある/傾向性Zをもつことを認知する
    を区別しなければならない。
     後者の特別な場合として,認知主体Xに関する
      (2') Xは,自分が状態Zにある/傾向性Zをもつことを認知する
    がある。
     (1) が事実か否かは,認知の問題ではない。(例:ある特定の物体について,それが磁性体であるか否かは認知の問題ではない。テストする前から,事実は一つに決まっている。)
     (2) では,“状態/傾向性Z”は,テスト前であれば臆断であり,テスト後であれば判断である。状態/傾向性の認知は──行為の認知の場合と同様──〈読み〉という特徴をもつ。特に,ひとは状態/傾向性の認知において,異なる状態/傾向性を読み得る。
     (1) と (2) の区別は,物理主義の急所を顕在化することに効いてくる。実際,《“いまXを考えている”つもりでいる》は,《いまXを考えている》とは違う。そこで,《いまXを考えている》ということが一体あるのか,という問題になる。そしてこの問題には答えというものがない。
     こうして,物理主義はそれが言表される最初の段階で宙ぶらりんになる。

    1.4.3 結果論としての傾向性

     傾向性は,事後的な説明において事態の因子として言表される。傾向性は結果論である。
     例えば,A,Bの二人がいて,彼らに一つの問題を出す。このとき,Aは自分で考えようとし,Bは教科書,参考書の中から解を求めようとする。さて,問題に対するAとBの対応の違いを,われわれはどのようなことばで説明しようとするか。
     “傾向性の違い”── Aは何でも独りでしたがり,Bは他に依存したがる──という表現がぴったりくる場合がある。しかし,これは常ではない。“Aは類似の問題を既に経験しており,一方Bにとってその問題ははじめて出会う種類のものである”が説明になる場合もある。

    1.5 ボトムアップ指向

     合理主義はボトムアップ指向である。この指向は,経験論阻却の方法論である。
     合理主義者は経験論者に対して不満を抱いている。この不満には,理念的と実践的の二つを区別できる。
     合理主義的オリエンテーションでは,経験論は精神の暗愚な状態に他ならない。covert な経験論に終始し,経験則を overt な法則で説明しようとしないことは,怠惰を意味する(註)。(合理主義者は,covert よりも overt に惹かれる。)経験論は軽蔑の対象である。これが,合理主義者が経験論に対して抱く理念的な不満である。
     また,合理主義者は,教育を合理主義的に──即ち,overt な因果法則を理由にして──進めたいと望む。covert な経験則に従って教育がなされている現状は,彼らの本意ではない。これが,合理主義者が経験論に対して抱く実践的な不満である。

    (註) 反合理主義者が overt なものによる説明を退けようとする場合,彼らは (1) 不可知論の立場か,(2)“何も隠されてはいない”(Wittgenstein) という立場に立っている。(1) の不可知論は反合理主義者にとって科学である。しかし合理主義者は,(1) も (2) も精神の怠惰と見なす傾向にある。