7 数学教育学のオリエンテーション  


    7.1 数学教育学における実体的説明形式の不要性  数学教育学は,本来──あるいは最終的には──実体的説明形式を必要としていない。実体的説明のための記述レベルの効用は,研究実践的なものである。
     実際,数学教育学のゴールは,数学教育に直接的に有用な経験的命題の獲得であり,経験的命題の実体的説明をつくることではない。

    7.2 メカニズム的説明指向の研究の位置づけ

     D1−I−D2 形式の経験命題を求めようとするリサーチ研究に対しては,メタファを用いて D1−I−D2 の実体的説明をつくる研究が対応して考えられる。
     メタファを導入することの数学教育学的意義は,“計算による予見”という形の研究を可能にすることである。
     実際問題としては,Iを各論的に求めようとする教材研究において手掛かりになるもの──結局は,制約条件──をもたらすことがあり得るということである。──教材研究では,われわれは様々な次元で制約を求めていると言える。われわれは,自ら制約を求めて,そして制約緩和の営みとして教材研究を行なう。

    7.3 心理学的リサーチの阻却

    7.3.1 “共時的-心理学的"リサーチの阻却

     “学習主体を〈共時態〉として扱うタイプのリサーチ”──例えば,業者から仕入れたネズミに対して迷路実験を遂行するリサーチ ──は,伝統的に極めて心理学的であるので,わたしはこれを“共時的-心理学的”と形容することにするD(註)
     先に,論点として
      《数学教育学のリサーチにおいては,われわれは一貫して,学習主体を〈通時態〉として措定しているのでなければならない──学習主体を〈共時態〉として扱うタイプのリサーチは,数学教育学において占める場所をもたない》
    を導入したが,特に,
      《数学教育学のリサーチは,共時的-心理学的であってはならない》

    7.3.2 “意味閑却的-心理学的"リサーチの阻却

     数学教育学の命題形式 D1−I−D2 におけるIは,命題が数学教育的知見であるための条件として,まさしく“数学の指導”でなければならない。──ここで“数学の指導である”ということの意味は,Iにおける素材=制約素材は数学教育素材(数学教材)として主張できるものでなければならないということである。数学的表象が制約素材に用いられているからといって,Iが“数学の指導”になるわけではない。
     ある制約素材が数学教材と言い得るか否かは,純粋に各論である。即ち,教材研究によって明らかにされることである。
     心理学は,伝統的に数学的表象を制約素材に多用してきた。それは,“簡単なところから明らかにしていこう”という考えからであるが,ここで数学がわれわれにとって“簡単”に見えるとすれば,その理由は,数学の文法の単純さと,数学に対する規範学の特徴づけによる。即ち,その〈簡単さ〉は,〈外部〉に対する参照──即ち,セマンティクス──を不要にすることで得られたものである。心理学が数学的表象を制約素材に用いるとき,それは数学のこの種の〈簡単さ〉に目をつけているのである。
     そこでわたしは,数学的表象がセマンティクス閑却のレベルで専ら扱われているリサーチに対しても,“心理学的”と形容することにする──但し,“共時的-心理学的”と区別して“意味閑却的-心理学的”。
     そしてつぎのものが,ここでわたしが導入しようとする論点である:
      《数学教育学のリサーチは,意味閑却的-心理学的であってはならない》

    7.3.3 “課題先送り的-心理学的”リサーチの阻却

     数学教育的な知見の記述レベルは,合理主義的心理学的アプローチ(積み上げ的アプローチ)の射程にはいる記述レベルとは隔絶した高みにある。したがって,数学教育への合理主義的心理学的アプローチは,“課題先送り”の形でしか成立しない。
     可知への展望のほのめかしで終始する(課題を先に延ばし延ばしする)言説は,やはり悪質と言わねばならない。

    7.4 “理論の積み上げ",“オリジナリティ"の強調の誤まり

     数学教育の研究に対する合理主義的オリエンテーションは,“理論の積み上げ”を強調するものになる。また,理論の積み上げの強調はその積み上げの一つ一つの層の重視と通じ,“オリジナリティ”の強調という形でも現われる。
     しかし,数学教育の研究に対する“理論の積み上げ”ないし“オリジナリティ”の強調は,むしろ間違っている。
     数学教育はいわば企業であり,数学教育学はこの企業の中の研究開発部といったところである。一般に,研究開発部の本分は経営において企業をリードするということにはないが,同様に,数学教育学の本分は数学教育をリードすることではない。
     数学教育の研究には,経営のためのものと研究開発部内研究の二種類がある。そして,“理論の積み上げ”や“オリジナリティ”といった文言が意味をなすのは,研究開発部内研究に対してである。経営のための研究は,このような題目とは無縁である。経営のための研究では,情況を的確に把握し,対応を誤まらないことが肝要であり,扱っているアイデアの出所等に頓着する必要はない。
     “理論の積み上げ",“オリジナリティ”の強調は,数学教育(経営)とは全く別次元の力学に基づいている。それは一つのゲームを形成している(学会)。実際には,文字どおりのオリジナリティといったものは無い(“天の下に新しきもの無し")。“オリジナリティ”は,ゲーム上のものである。
     数学教育(企業)としては,このゲームに義理立てする必要はない。数学教育学(研究開発部)は数学教育(企業)の中の邑(むら)である。そして,“理論の積み上げ",“オリジナリティ”の強調は邑根性である。
     このようなわけで,数学教育の研究に対し一律に“理論の積み上げ”や“オリジナリティ”を指導することは,誤まりである。
     加えて,“理論の積み上げ",“オリジナリティ”の強調が数学教育学(研究開発部)を望ましい方向に導くとも限らない。一番の不都合は,社会の変化に遅れをとることである。研究にはスピードも要求される。“積み上げ”が高さをもたらすとは限らない。(無限数列には有界なものもある!)そして,ある高さを先取りして始めるという手もある。

    7.5 合理主義的オリエンテーション阻却のプログラム

     本論文では,紙数の都合から,反合理主義-的オリエンテーションを扱うことができなかった。そこでこれに代えて,最後に,数学教育学において合理主義的オリエンテーションを阻却するときのプログラム──わたしの考えるプログラム──を示しておく。
    • 数学教育学の顕著なオリエンテーションとして,合理主義的オリエンテーションが同定され得る;
      ・合理主義的オリエンテーションは相対化され得る;この意味で,数学教育学は独特のオリエンテーションによって導かれていることになる;
    • 合理主義的オリエンテーションは,数学教育学にとってミス・リーディングである;理由の根本的なものは,“主体(subject/agent)”を通時態として扱えないことである;
    • 合理主義的オリエンテーションに替わり得るオリエンテーション──反合理主義-的オリエンテーション──は,可能である;
    • 但し,反合理主義-的オリエンテーションは,研究実践に対する影響をそれの意義とするのであり,研究の最終的成果としての数学教育的知見に痕跡をとどめるものではない;
    • 実際,このオリエンテーションの下では,数学教育学の最終的成果と見なされる数学教育的知見は,すべて経験則である;特に,それらは,“これまで得られているものよりは上等”という形でしか合理化し得ないものである;
    • これは,数学教育的知見を生成する理論の構築D(註)は不可能であるという理由による──理論が不可能であることにより,数学教育的知見は経験則でなければならず,しかも合理化され得ない.
    (註) この理論構築の目的は,
      《“教授/学習主体”──“生活者”であり,かつ通時態──の生成的説明(ボトムアップ的説明)を得て,指導法を論理的に構築できるようにする》
    ことである。このような理論の構築の試みは,最初から,根底的かつ原理的な不可知性に突き当たる。