Up <教える>と<遊ばせる> 作成: 2014-02-11
更新: 2014-02-24


    算数の内容は,小学生仕様の数学である。
    これを教えることが,算数の授業をするということである。

    しかし実際のところ,<教える>をやると,授業が保(も)たない。
    即ち,生徒が授業から脱けていく。

    授業者は,授業を保たせることに優先度を最も高く措く者である。
    そこで,<教える>に換わるものを考える。
    <遊ばせる>が,これになる。


    <遊ばせる>とは?
    <教える>と<遊ばせる>の区別は,機能的には《学習活動を数学的主題に回収》の有無である。

    例えば,「AとBはどちらが大きい?」を,生徒の「興味・関心」に仕立て,そして生徒を「AとBはどちらが大きい?」の解を求める学習活動に入らせたとする。
    <教える>だと,この学習活動には数学的主題への回収が続く。
    即ち,つぎのようになる:
      この問題の解を求める過程で,一つの見方・考え方「P」に到達した。
      「P」が,実は今日の授業の主題である。
      君たちに課した作業は,「P」に到達するための方便であった。
      実際,問題の解はAであったが,解自体はどうでもよいものである。
      そこでこれより,他の例・いろいろな例で,「P」を練習してみることにする。
      「P」を観ることとこれを身につけることは,まったく違うことであるからだ。
      身につけるためには,練習がいっぱい必要になる。

    一方,<遊ばせる>は,つぎのようになる:
      問題の解はAでした。
      一件落着。
      そして,ちょうど終わりの時間になりました。
    ただし,授業者の思いでは,この授業は「P」の授業である。
    この授業者は,つぎのように考える者である:
      《授業の中で「P」を言っていないが,
       生徒はこの授業で「P」を学習している。》
    即ち,つぎのようには考えない者である:
      《「P」を観ることとこれを身につけることは,まったく違う。
       身につけるためには,練習がいっぱい必要。》

    《生徒は<遊ぶ>の中で暗黙に学習している》の考えをもつのは,自分自身,数学を本当に勉強した経験が無いためである。
    数学を勉強する者は,アスリートと同じである。
    カラダは不自由である。 単純なことを何度も繰り返し,カラダに覚え込ませる。
    課題を明示的に立て,それの遂行に地道に努める。
    <遊び>でアスリートが成らないように,<遊び>で数学の勉強は成らない。