Up | 授業ができる | 作成: 2014-11-28 更新: 2014-11-30 |
実際,「授業がわかる」の証は,「授業ができる」である。 特に,「授業がわかるカラダ」の表現になるカラダは,「授業ができるカラダ」である。 「授業ができる」は,自分の持ち場の学校種で考えればよい。 力の転移は,力の陶冶と比べて,はるかに容易である。 自分の持ち場の学校種で授業できる者は,他の学校種でも授業できる者である。
その「授業している」は,定めし「間違った授業をしている」である。 「授業ができる」には,いろいろな意味が含まれる。 実際,概念分析すれば膨大な量の下位概念が導かれる。 そしてその意味の各々に対し,「カラダづくり」が考えられてくる。 授業づくりは,「授業ができるカラダ」をつくる修行の,基本になるものである。 授業は,自分の思いでつくるわけであるから,思いつきがつくる。 思いつきでつくれば,間違う。 授業づくりの修行は,《授業を思いつきでつくって間違う》の繰り返しである。 これと並行に,その他の修行項目の修行を進めていく。 そうすると,間違いの程度がだんだんと小さくなる。 授業づくりの修行が成っているというわけである。 この修行は,己がひどい間違いをする者であることを,身に染みて知るところとなる。 「己がひどい間違いをする者であることを身に染みて知る」は,修行の重要な眼目の一つである。 この認識があって,謙虚になり,さらに修行に進ませるからである。 ──実際,どの道の修行も,行うほど謙虚になるようになっている。 『数学の授業法』 |