Up | 中道公案 | 作成: 2015-02-12 更新: 2015-02-13 |
著しくは,正反対になる。 これは,授業に<よい・わるい>が無いことを意味する。 授業に<よい・わるい>は,無い。 有るのは,評価する側の立場の違いである。 数学教育は,文字通り,数学と教育のドッキングである。 ここに,数学の立場と教育の立場がある。 そして二つは,正反対のものになる。 「数学がわからない・できない」についての数学の立場は,つぎのものである:
「指導法」についても,数学の立場はつぎのものである:
教育の立場は,「学習」を「活動」にする。 数学の立場だと,「学習」は「活動」ではない。 例えば,「まわりと話し合う」は,教育の立場では授業のメインであるが,数学の立場では,これはあり得ないものになる。 実際,数学の立場での「話す」は,話す相手は人ではなく,探究の対象である。 即ち,自分と対象の間の作用・反作用を「対話」と見立てるときの「話す」が,数学の立場での「話す」である。 「学習」を「活動」に定める教育の立場は,活動主義に進む。 即ち,活動を授業の目的に定める。 教育の立場の「活動を授業の目的に定める」の意味は? 活動主義は,活動能力の陶冶を教育の目的に立てる立場である。 数学教育だと,「数学的○○」(「考え方」「問題解決」「リテラシー」) の陶冶を数学教育の目的に立てる。 これに対し数学の立場は,授業の目的はあくまでも「数学がわかる・できる」である。 「活動」は,この目的の実現に必要なら用いられるという役どころであり,そしてこの役どころが目立つことは先ずない。 数学教育は数学と教育のドッキングであるが,しかしこれの意味は,つぎのようではない:
ここに,数学教育実践論は「どちらにもつかず,かといって中間もない」になる。 この実践論は,パラドクシカルである。 一方,この実践論は,思想的類型を求めることができる。 「中道」である。 「中道」は,両極端の中間を取ることではない。 「中道」は,互いに交ることのない水と油を厳然と立て,どちらにもつかず,中間も無いとする。 一般に,教育のダメな論は,「水」と「油」をわかっていないことがおおもとである。 他方が無い体(てい) で一方に与するか,あるいは両方の中間を立てようとする。 そして,間違う。 しかし,「中道」は,パラドクシカルな実践論である。 実際,「中道を立場とする行いは?」の問いは,まさに禅の公案である。 ──「現成を立場とする行いは?」の問いが禅の公案であるように。 |