Up 実質的養成の授業形態は? 作成: 2009-08-05
更新: 2009-08-05


    <まじめ・地道>が実質的養成の形である。
    うまい手・近道は存在しない。
    では,どのようにするのが,<まじめ・地道>ということになるのか?
    また,どのような方向を見ることが,<うまい手・近道を求める>になるのか?

    数学を授業できるためには,教員はカラダに数学をもっていなければならない。 もっていなければ,学習してカラダに入れなければならない。 この学習は,終わることがない。
    とはいえ,集中して学習できるのは,教員養成課程の学生でいるときである。 また,学習の仕方をこの時期に習得しておかねば,手遅れになる。
    そこで,数学教員養成は,数学をわからせることにいちばん時間をかけることになる。

    一方,これと併行して,数学の授業構築を指導する。 学生には,授業設計と模擬授業を課す。
    学生がカラダにもっている数学は貧弱なものである。 よって,授業設計・模擬授業は,はかばかしいものにはならない。 しかし,これはコツコツとやるのみである。

    指導法は,この状態の授業設計・模擬授業に重ねて取り組まれるわけであるから,これもはかばかしいものにはならない。 実際,学生は,授業パフォーマンスのもとになることばを絞り出すところで,既に四苦八苦している。 しかし,これもコツコツとやるのみである。

    授業設計・模擬授業・指導法の修練から,数学が改めて学習される。 実際,<わかる>という視点から数学を見るようになり,このとき数学的主題の<意味・意義>に意識が向くようになる。
    これは,重要な点である。 なぜなら,学生はたいてい専門数学の学習に失敗しており,そしてその失敗の内容がつぎのものだからである:
      数学的主題の<意味・意義>を知らない
      自分が<意味・意義>を知らないということを認識していない
      <意味・意義>というものがあることを知らない


    「コツコツとやるのみ」が信じられないとき,あるいはこれに我慢ができないとき,新機軸を求めるふうになる。 すなわち,「合理的・効率的な方法 (うまい手・近道) は?」の思いで新機軸を求める。

    これをする者には,一つのタイプがある。 それは,認知科学をベースにした考え方をするというものである。
    この発想では,人間は論理マシン (コンピュータ) である。 論理マシンの機能は,プログラム次第である。 そこで,機能向上をプログラムの改良で考える。 機能をことばのロジックで考えるので,機能向上は単純なプロセスに表現されるものになる。

    しかし,人間は論理マシンとは違っている。 カラダが論理マシンとは違うのである。
    カラダは複雑系である。 複雑系は,非常に不自由である。 (ただしこの「非常に不自由」は,安定性の裏返し。) プログラムの入れ替えで機能一変というふうにはならない。 また,そもそも「プログラムのインストール」に対応するようなカラダの位相はない。 機能向上 (成長) は,単純なプロセスに表現されない。

    「教育がわかる」には「カラダと論理マシンの違いがわかる」が含意される。
    「教育がわかる」に至らせるもの,したがって「カラダと論理マシンの違いがわかる」に至らせるものは,年季である。

      「教育がわかる」に至っていなければ,「人間=論理マシン」から教育にアプローチするやり方が,むしろしっくりする。