Up | はじめに | 作成: 2014-08-01 更新: 2014-08-01 |
これは,「箱」を述べることである。 「箱」を示されても,それで授業はつくれない。 授業は,箱の中身になるものだからである。 授業法の書き手は,なぜ,「箱」を述べてそれで授業法を述べたと思っているのか。 書き手は,「箱」の中身にイメージをもっている。 そのイメージのもとは,書き手の経験である。 書き手は,読み手を自分のコピーにしているのである。 では改めて, 「授業法」を述べるとは,何を述べることか? 「相手が授業できるようになることを述べる」は,そもそもあり得ないことである。 よって,「授業法を述べる」は,「相手が授業できるようになることを述べる」にはならない。 併せて「相手を授業ができる者にする」というスタンスが,そもそも疑われるべきものになる。 さらに,「授業ができる」の様態設定が,そもそも疑われるべきものになる。 本論考は,このように考える立場から,「授業法」を書いてみようとするものである。 結局,授業に際しての「構え」「姿勢」が,述べることになるものである。 「授業法」にはならないから,「授業作法」を標題とする。 |