Up おわりに 作成: 2015-12-02
更新: 2015-12-29


    「数学教育」「数学教育学」を生業う者は,時に,漠然とつぎの想いをもつ:
      《数学教育・数学教育学は,本来,
       現前の「数学教育」「数学教育学」とはもっと違うものである》
    この漠然とした想いをはっきりさせたいと思うとき,つぎの問題をたて,これの探求に向かうことになる:
      《数学教育・数学教育学とは,本来どういうものか?》
      《「数学教育」「数学教育学」は,どうしてこのようなのか?》
    本論考は,この探求を科学のスタンスで営むことを,改めて数学教育学と呼び,現前の「数学教育学」に対置する。
    ここで「科学のスタンス」のスタンスの「科学」の意味は,《現前を理の実現と定め,その理を探求する》である。


    数学教育学の動機が持たれたら,つぎは数学教育学構築の見込み/勝算を考えることになる。

    科学は,理論の形になることが理想である。
    理論とは,シンタクス,セマンティクスの枠組と,定理の積み重ねである。
    一方,数学教育学は,「疎外論」「複雑系科学」「生態学」を趣きにした探求になる。
    疎外論・複雑系科学・生態学は,理論の形をもてない。

    論考は,現成論と Transzendental を操る。
    経験値と推理で,これに挑む。
    論考は,自ずと,パラドクシカル/アクロバティックな物言いを用いるものになる。
    「数学教育学」のパラダイムは「論理実証主義」「リサーチ」であるが,それはこの論考には合わない。

    「複雑・曖昧模糊」が論考の趣きになるが,これは構うことではない。
    論考が「複雑・曖昧模糊」になることは,数学教育学の主題の含蓄である。
    論考は,複雑・曖昧模糊を覚悟する。


    数学教育学のこの営みは,何のためか?
    「数学教育」「数学教育学」へのフィードバックを考えたものではない。
    実際,数学教育学の立場は《現前を理の実現と定め,その理を探求する》である。
    「数学教育」「数学教育学」は理の実現であって,"No more than this" なのである。

    数学教育学のこの営みは,思想のためである。
    一般に,学は,思想に回収される。
    翻って,学は思想の入口である。

    学の動機は,結局「自分の存在の証しを求める」である。
    ゴールは,「自分の存在の証し」であり,これが思想である。
    思想の入口はなぜ学か?
    《確かなゴールを求めるときは,確かな入口・プロセスを求めることになる;学がその「確かな入口・プロセス」の形》というわけである。

    「数学教育学」を生業にしてきた者は,己の存在の証しとして自ずと数学教育学に向かう。
    数学教育学は,そのように存る。