Up 「自裁」テキスト 作成: 2018-10-02
更新: 2018-10-02


      西部邁 (2018), pp.85-87.
     この老人、齢経るにつれ、アンドレ・マルロー (がその嚆矢とされている) 流儀のアクティヴ・ニヒリズム (活動的虚無主義) には意義を見出せないようになっていた。
    若い折に、アクション (活動) を反政府・反日共の一点に絞るという事態の成り行きのなかで、若き日のマルローに代表される「既成の価値をすべて疑いつつ極端な行動に走る」ことを好んでいた。
    その繋がりでヒットラーの『我が闘争』をすら受け入れていた。
    そんな自分の姿を、この老人はのちに深く自省することとなったのである。
    簡略にいえば、活動の目標が複数個あるとき、そのあいだで選択するための規準は,自分ら生者の乏しい経験と知能に拠る前に、死者たちの残しているはずの伝統に求めよ、というところからこの男の保守思想が始まったわけで、それと同時に、ニヒリズムは峻拒さるべきとみなされた。
    活動的虚無とて生の堕落の防波堤にはなりえないのみならず、基準としての伝統が指し示すのは「葛藤のなかにある諸目標のあいだの平衡」ということなのである。
     だが、年老いて、身動きが不自由になり、下手すると身の回りの者たちの介護を受ける破目になるかもしれないと予想され、論述のテーマも出尽くし、さらに論述が空転することが多くなる段階に入ったと自覚されるような生にあっては、活動目標は「いかに死ぬか」の一点に絞られてくる。
    その方法についても選択肢の幅があることは確かだが、それはもう (価値観とは関係なく) 単に技術的な次元にあるだけのことで、最も簡便な死に方つまりシンプル・デス (簡便死) が最善となるに違いないのだ。
    そしてそこでなら、あの懐かしい活動的虚無が甦る。
    つまりおのれの活動歴の最後にして唯一の一駒として「死の決行」を生きいきとなせるということになる。
     今、自分の人生の過ぎ越し方を概観し終えて、この男、「こういう経緯を辿るのが自分の運命だ ったのであろう」という以外のことをいえない気分でいる。
    いろいろなことを思索し思考し様々なことを試験し実践しはしてみたが、総じていえば、「何ということもなかった平凡な人生」だったといったほうがよいのであろう。
    死活に「近い」局面がいくつかあり、必死に「近い」気持ちでそれらに立ち向かってみはしたものの、そのすべてが「平和と民主」や「進歩とヒューマニズム」の凡庸にして退屈な時代におけるちょっとした逸脱であり、ちっぽけな波紋を自分の周囲にほんの暫し生じさせる類の些事にすぎなかった、と省みるしかない。


       富岡幸一郎「自死について」, in 西部邁 (2018), pp.175,176.
     本書第一部の「死の意義」「死の選択」「死の意味」は、西部邁が五十五歳のときに上梓した『死生論』からとっているが、これは戦後の日本といういびつな「太平の世」に差し向けられた現代の『葉隠』なのである。
     『葉隠』は、江戸の前期 (享保元年) にすでに武土が戦から遠ざかり太平の時代を生きなければならなくなったとき、その「生き方」の指南を鍋島藩土・山本常朝が語った尚武思想の本である。 『葉隠』はまさに「死に方」がわからなくなった時代に「死」の意識を想起させることで、いかに生くべきかを説いたのである。
     《 武士道といふは、死ぬ事と見附けたり。二つ二つの場にて、早く死ぬはうに片付くばかりなり。 ‥‥ 毎朝毎夕、改めては死に改めては死に、常住死身(しにみ)になりて居る時は、武道に自由を得、一生越度なく、家職を仕果すべきなり》
     つねに死を心に当てて、万一のときは死ぬことを選べば間違いはない、死ぬべきときに死なないのはよろしくないとの行動哲学である。 実は、山本常朝その人は六十一歳の長寿で畳の上で死ぬのであるが、彼が説いているのは武士の決断であり、「常住死身」になることによる「生き方」の作法である。
     『葉隠』を座右の書としてきたという三島由紀夫は『葉隠入門』でこのようにいっている。
     《 ‥‥『葉隠』はそういう太平の世相に対して、死という劇薬の調合を試みたものであった。 この薬は、かつて戦国時代には、日常茶飯のうちに乱用されていたものであるが、廃兵の時代となると、それは劇薬としておそれられ、はばかられていた。 山本常朝の着目は、その劇薬の中に人間の精神の病いからいやすところの、有効な薬効を見いだしたことである。》



  • 参考・引用文献
    • 西部邁 (2018) : 西部邁[著], 富岡幸一郎[編著]『自死について』, アーツアンドクラフツ, 2018.