- 現象論の無理構造
実体論と現象論は,つぎの対称(鏡像)関係になる:
実体論 : 内包 → 外延 (内包は,先だから実体)
現象論 : 外延 → 内包 (内包は,後だから幻想)
しかし,正確には対称ではない。
即ち,
内包は,外延を導くが,
外延は,内包を導かない
関数に適用すると,:
fの式は,fのグラフを導くが,
fのグラフは,fの式を導かない
| | 例えば,あるグラフを見て「これは比例関数だ」とは言えない。
そのグラフは書き切れていなくて,書き切れていなところでは曲がったり切れたりするのかも知れないから。
そして「比例関数のグラフ」を書き切ることはできない。
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こうして現象論は,現象を言って終わる。
この現象が何の現象かを,言えない。
尤も,その何を言うことは,何が実体になることであるから,実体論になる。
- 実体論の理由
実体論の実体論たるゆえんは,
現象の観察者に依存しない
ができるということである。
観察者に依存しないものを措定できることになる。
- 現象論は,実体論を嫌う
現象論は,実体論との鏡像関係を認める。
一方,「外延 → 内包」は実際には不可能。
よって,「半分実体論」と言うこともできる。
しかし,つぎの印象がある:
現象論は,誠実
実体論は,うさんくさい
誠実とはうさんくさいを嫌うことだから,
現象論は実体論を嫌うことになる。
- 実体論のうさんくさいの意味
「現象論は半分実体論」の言い方をしたが,
実際,現象論が退けているのは,実体論ではなく実在論ということになる。
そこで,
実体論の「実体」とは何か?
という話になる。
これをまじめに考えると,プラトニズムになる。
この話の要諦は,まじめに考えないことである。
このまじめに考えると考えないのよい教科書が,Wittgenstein の前期と後期。
Wittgenstein の「前期→後期」は,「転回」と言われたりするが,そうではない。
「イデア論」はそのまま「言語ゲーム」に読み換えられる。
実際,イデアの「分析棚上げ」は,「言語ゲーム」である。
そして実体論は, 「実体」 の言語ゲームである。
即ち,現象の観察から,
<実体にすると便利で,論理的にも破綻しないもの>
が浮かび上がるとき,これに名前をつけて実体にする:
現象 → 幻想 → 実体
さらに転じて,現象を
この実体を内包としたときの,外延
ということにする:
実体 → 現象
- 存在の悟りの形は,実体論
現象論は,現象で止める。
実体論は,現象をさらに
「現象=実体の現象」
にする。
そこで,実在論,現象論,実体論の関係が
つぎのようになる。
1. 実体の言語ゲームが所与の処で生きる者は,
実体を実在にする。
2. そこで,実在は幻想であることを知るために,
現象論 (存在階層論) をやる。
3. そして,実体の言語ゲームの理由を知る:
・実体措定は,便利
・実体措定を論理的に破綻させない物理的基盤が有る
4. そこで,功利主義の立場から,
確信犯的に実体の言語ゲームを択る。
つまり,実体論は,つぎの思想遍歴をするものである:
実在論 → 現象論 → 実体論
こうして実体論は,<悟り>レベルの存在論ということになる。
この悟りは,つぎの2つの悟りを合わせたものである:
実在論 → 現象論 :ブッダ (空観)
現象論 → 実体論 :Wittgenstein (言語ゲーム)
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