カミュは,実践論を示さねばならぬと思う者であった。
「過激」の言い方で自分が批判する相手は,実践主義を唱える者である。
この彼らに対し,自分も実践主義で応じねばならないと思うのであった。
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Camus (1951), p.23.
反抗の問題の現代性は、社会全体が、今日、神聖から離れようとした事実につながっている。
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反抗がわれわれの歴史的現実なのである。
現実逃避をしない限り、そのなかにわれわれの価値を発見しなければならない。
神聖から離れ、その絶対的価値なしで、行動の法則を見つけることができるだろうか。
これが反抗によって提出された問題である。
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自分が批判する相手が示してくる実践は,集団化する実践である。
よって,自分も集団化する実践で応じねばならない。
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同上, pp.23,24.
人間の連帯性は、反抗的行動に基いている。
そして反抗的行動は、こうした共犯性のなかにしか、正当の理由を見いだすことができない。
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不条理の体験では、苦悩は個人的なものである。
反抗的行動がはじまると、それは集団的であるという意識を持ち、それが万人の冒険となる。
だから、自分が異邦人であるという意識にとらえられた精神の最初の進歩は、この意識を万人とわけ合っているのだということをみとめ、人間的現実は、その完全性のなかにあっても、自己と世界とを引き離す距離に悩むものだということをみとめることにある。
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われ反抗す、故にわれら在り。
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自分が批判する相手の実践は,殺人的破壊になるものである。
だから自分は批判するのである。
この自分が彼らに対置するものは,秩序である。
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同上, p.25.
奴隷は、彼の身分のなかであたえられる条件に反対し、形而上的反抗者は、人間としてあたえられる条件に抗議する。
叛逆的奴隷は、主人の扱い方に承服できないものが自らのうちにあることをみとめる。
形而上的反抗者は、創造によって欺かれたと宣言する。
どちらにとっても、純粋で、単純な否定だけが問題なのではない。
事実、どちらにも価値判断があり、反抗者はそれに従って、みずからの条件の承認を拒絶する。
主人に反抗して立ち上った奴隷に、存在としての主人を否定する気持のないことを注目したい。
彼は主人としての、主人を否定する。
主人が、奴隷を、その要求の故に否定する権利を持つことを否定するのだ。
主人は、要求を無視して、それに応じない程度に従って、失格する。
もし人間が、各人のなかにあるとみとめられている共同の価値に頼ることができなければ、人間は互に不可解な者になってしまう。
反逆者は、彼にこの価値があることを、はっきりみとめてくれと要求する。
この原則がなければ、無秩序と犯罪が世界を支配する惧れがあるからである。
反抗的行動は、彼のうちで、光明と統一の要求として現れる。
どんな初歩的な叛逆でも、逆説的にいえば、秩序への希求を現している。
以上の叙述は、一言一句、形而上的反抗者にもあてはまる。
彼は世界の統一を要求するために、分裂した世界に反抗する。
彼のうちにある正義の原則と、世界にはびこっている不正の原則とを対立させる。
だから彼はもともと、この矛盾を解決し、できれば正義の一元的支配を打立てるか、あるいはぎりまりまで追いつめられて、不正の一元的支配を打立てることしか望まない。
それまでは、彼は矛盾を告発する。
人間の条件の不完全な点にたいしては、死によって抗議し、不統一な点にたいしては、悪によって抗議する形而上的反抗は、生と死の苦悩にたいして、幸福な統一を要求する。
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引用文献
- Camus, Albert (1951) : L'Homme révolté, Librairie Gallimard, 1951.
- 佐藤朔・白井浩司 [訳]『反抗的人間』, 新潮社, 1956.
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