「第1宣言」で同志に持ち上げられた者たちは,「第2宣言」において「低能・裏切り者」として曝される:
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『シュールレアリズム宣言』, pp.58-60
例えばアルト一氏は,その現場を人に見られたように,あるいは実際に見なくとも十分ありそうなことだと人に信じられるように,あるホテルの廊下でピエール・ユニックに横っつらをはられ,母に助けてくれと泣きついたことがあるのだ。
またカリーヴ氏は,政治的な問題や性的な問題を,抜け目のないテロリズムの角度からだけしか見ることのできない,要するにマルロ一氏のあのガリンのような弁明者にすぎないのだ。
またデルテイユ氏については,(ナヴィールの編集による)『シュールレアリスム革命』誌第二号にのった彼の愛情についての下劣な記事を見れば十分であろう。
その後シュールレアリスムから彼が除名されたことや,彼の作品『勇士』『ジャンヌ・ダルク』などについては,もう説明する必要もあるまい。
ジェラール氏は彼なりのやり方で,ただ一人,先天的な低能の故に除名された。
デルテイユ氏の場合とはまた違った変わりようで,現在『階級闘争』『真実』誌などで,こまごました仕事をしている。
いずれもたいしたことはないが。
ランブール氏も同じように,ほとんどわれわれのそばから姿を消してしまった。
彼のばあいは懐疑的であることと,語のもっとも悪い意味での文学的コケットリーが目立っていた。
マッソン氏の場合は,ひどく誇示された彼のシュールレアリストとしての信念が,『シュールレアリスムと絵画』と題された書物を読むことによって,もう我慢ができなくなったのだ。
この書物のなかで著者は,画家たちの階級などということには全く意をはらわず,マッソン氏が悪党と見なしているピカソよりも彼のほうを,またマッソン氏が自分よりも絵のかきかたが下手だという唯それだけの理由で非難しているマックス・エルソストよりも彼のほうを,それぞれ上位に置くべきだ,などとは思わなかったし,また上位に置くことが出来るとも思わなかったからである。
ピカソやエルンストについての彼のこの言葉は,マツソン氏自身の口から私が聞いたものである。
スーポー氏のぱあいは,彼とともにあらゆる汚辱がついてまわっている。
彼が自分の名をあげて書いているものについては語るまい。
彼が匿名で書いているもの,たとえば彼が猫イラズの周りをぐるぐるまわっているネズミのようないら立ちで,しきりと自己を弁明しながら,『立ち聞き』といったような脅喝専門の新聞に書いている,‥‥‥
最後にヴィトラック氏だが,彼こそは本物の思想をけがす者で──「純粋詩」などというものは,ブレモン師という油虫野郎と彼とにまかせておこう──この哀れな男の如何なる試練にもたえうる無邪気さは,自分の理想は演劇人である以上,もちろんアルト一氏の理想とおなじく,美しさという点にかけては警官の一斉検挙にも匹敵しうるほど見事なスベクタクルを作りだすことにある (『N・R・F』誌上に発表されたアルフレアド・ジャリ劇場の宣言) とまで告白したほどであった。‥‥‥
見られるとおり,これらはかなり滑稽なことである。
だが,まだいるのだ。
その他の者は,彼らの公然たる活動があまりにも取るにたらぬものであったり,彼らの常習的な詐欺がさほど一般的でない分野で行われたり,また彼らが詩語によって難場を切りぬけようとしたりしたため,ここにあげた罪状列挙のなかには入らなかったものである。
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同上, pp.70-72
ナヴィール氏が,フランス共産党やロシヤ共産党や,あらゆる国の,それも対立する立場にある人の大部分のところへ出かけていき,しかもそれらのうちで第一級の人物で,借金の申しこみができそうだと思える人のところには片っぱしから出かけていったのを見るだけで十分であろう。‥‥‥
『詩的態度』という作品を書いたバロン氏は,そんな風な態度をとっていたが,ナヴィール氏のほうは革命家らしい態度を見せかけていたのだ。
共産党での三カ月の実地見習だ,とナヴィール氏は思っていたのだろう。
じつにうぬぼれの強い人である。‥‥‥
ナヴィール氏という人は,少なくともナヴィール氏の父親は,非常な金持である。
(この書物を読んでくれている読者のうちで,絵画的なものに敵意をもっていない人々のためにつけくわえて説明するが,『階級闘争』誌の編集事務所はグルネル街15番地のナヴィール氏の自宅にあるのだが,その自宅は実は,むかしのラ・ロッシュフーコ一公爵家の館なのである。)
このような考察をすることに,私は以前ほど無関心ではなくなった。
例えばモランジュ氏が『マルクシスム雑誌』の創刊を企てた時,彼がこのためにフリードマン氏から500万フランの出資をうけたことに私は注目している。
ルーレットの賭における彼の不運は,たしかに彼をしてそれだけの金額の大部分を,その直後につぐなわざるを得なくさせたが,そのことも結局たいしたマイナスとはならず,彼はこの法外な経済的援助のおかげで,人も知るごとく現在の地位を手に入れることができ,またその立場における彼の世間周知の無能力さをも見のがさせることに成功しているのである。
‥‥‥
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彼らをこんなふうに世に曝すのは,指導者は自分だということを示そうとするためである。
自分が彼らから愛想尽かしされたというふうに世間に思われないよう,自分が彼らを粛清したのだという格好を先回りしてつくろうというのである:
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同上, pp.72,73
これらの問題について十分に時間をかけて意見をのベたほうがいいと私が考えたのは,まず第一に,むかしわれわれに協力してくれた人たちのうちで,現在すっかりシュールレアリスムの迷いがさめたと思っている人々は,ただ一人の例外もなく,すべてわれわれによってシュールレアリスムから除名された人々だということを,はっきり意思表示するためである。
従って,いかなる理由でそうなったかを世間に知ってもらうことは,あながち無益ではなかったと思う。
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粛清をさせるものは,嫉妬である。
そして嫉妬は,粛清をつぎのように合理化する:
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同上, p.60
こうした註釈をこれ以上長くつづけることはやめるべきだと私に要求するのは,すこし言いすぎであろう。
私の方法の範囲内では,こうした卑劣な人々や真似をする人,出世主義者,いつわりの証人,そして警察のスパイなどを勝手に泳がせておくことは,許されてはならないことだ。
彼らを打ちやぶり得る時がくるまで待つあいだに失われる時間は,まだとりかえされるし,彼らを攻撃することによってのみ取りかえし得るだろう。
私はこうした非常に正確な区別だけが,われわれの今もとめている目的に完全にふさわしいことだと考えるし,
またこうした裏切者たちがわれわれの間にとどまりつづけることの破壊的な効力を,実際以上に低く見つもることには,ある不思議な理性のくもりが認められるし,
それと同様,もはや小手しらベぐらいのことしか出来ないぐらいに成りさがってしまったこれらの裏切者が,このような制裁に無感覚でありつづけうると想像することには,実利主義的な性格のもっとも歎かわしい錯覚があるように思う。
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粛清の果ては,自分独りになることである。
独りぼっちになった者は,「少数精鋭主義」を立てて自分を保つ。
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同上, p.54
ただ注目すべきことは,かつての或る日われわれをしてやむなく彼らなしですごさざるを得ないようにしむけた人々が,ひとたび彼ら自身に,彼らだけにゆだねられると,たちまちにして,どうしたら難局を切りぬけられるのか分らなくなってしまい,ひどく哀れな窮余の策にもすがらざるをえなくなって,ついには秩序の擁護者や,頭脳による平等化の偉大な信奉者たちすべての寵愛をとりもどそうと努めるようになることだ。
それは,シュールレアリスムへの参加の誓いに遺漏なく従うことが,ごく少数の人だけが時のたつにつれて初めてそれをなし得ることを示していくような,危険への無関心と蔑視,そして妥協の拒否を要求するからである。
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同上, p.60
いずれも,われこそはと姿を見せる人々のうちで,シュールレアリスムが意図するものの高みにまで達しうるものは実にわずかな人々にすぎないこと,また,才能の衰えがすこしでも見えしだい,たちまち裁かれて,引きかえすすべもなく彼らを破滅のほうへ急がせるという事実が,たとえ残る者のほうが脱落する者よりも遥かに少ないにせよ,結局はシュールレアリスムのこの意図にとってプラスになるということを,彼ら [自分が粛清した者たち] のおかげでわれわれは立証しえたし納得することもできたので、ある。
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そして,《自分の理論は,わかる者たちにはつねに支持され続け,そしてやがて実を結ぶだろう》の妄想で,己を慰撫するのである:
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同上, p.54
‥‥ シュールレアリスムの立場は,たとえ十分に知られていてもなお,それが如何なる妥協をも許さぬものである点を知ってもらわねばならない。
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われわれは,たとえそれがどのような形をとろうとも,詩的な無関心,芸術的な気ばらし,博学な探求,純粋な思弁,そうしたものとはすべて戦う。
またわれわれは,卑小な人にせよ偉大な人にせよ精神をつかうことを節約するような人々とは,何ひとつ共通なものは持ちたくないと思う。
たとえ可能なかぎりのすべての緩和,すべての放棄,すべての裏切りがあろうとも,われわれはやはり,どこまでもそうした馬鹿げたこととは絶縁しつづけるだろう。
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同上, pp.54,55
初めのうちは率先して自己の意義ある機会や真実への欲望とシュールレアリスムとを釣合わせようとしたすべての人々のうちで,たとえ唯の一人も残らなくなったとしても,それでもシュールレアリスムは生きつづけるにちがいない。
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同上, pp.57,58
だが現在のこの瞬間にも,世界じゅう到る所で,高等中学校で,また工場においてさえ(原註),また街頭や神学校や兵営において,安易さを拒否しようとする純粋な若者たちがまだいるのだ。
そうした若者たちだけを私は相手にしているのであり,彼らだけのために私は,結局はありふれた知的な気ばらしにすぎないという非難から,シュールレアリスムを弁明しようと企てているのである。
そうした若者たちが,いわれのない偏見をすてて,いったいわれわれが何を作ろうとしていたかを知ろうと努め,またわれわれを助けてくれ,そしてその必要があれば,一人ひとりわれわれと交代してくれることを私は切望する。
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引用文献
- Breton, André : Les manifestes du surréalisme suivis de prolégomènes a un troisième manifeste du surréalisme ou non (1924-1942)
- 稲田三吉 [訳]『シュールレアリズム宣言』, 現代思潮社, 1961
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