菅野覚明『吉本隆明──詩人の叡智』の「第2章 固有時との対話」の中に,吉本隆明「日本のナショナリズム」から引いたつぎの文がある:
|
井の中の蛙は,井の外に虚像をもつかぎりは,井の中にあるが,井の外に虚像をもたなければ,井の中にあること自体が,井の外とつながっている,という方法を択びたいと思う。
|
文脈がわかる程度に文の前後を拡げて引用してみる:
|
[鶴見の]この見解は,当然,ソ連や中共やアメリカが友であり,日本の大衆は敵であるということが,条件次第では可能であるという認識を含むものである。
わたしは,ソ連や中共やアメリカにどんな虚像ももたないことを代償として,日本の大衆は敵であるということが条件次第では可能であるという認識にたいしては,鶴見の断定に反対したい。
あるいは,あるはにかみをもって,沈黙したい。
インターナショナリズムにどんな虚像をももたないということを代償にしてわたしならば日本の大衆を絶対に敵としないという思想方法を編みだすだろうし,編みだそうとしてきた。
井の中の蛙は,井の外に虚像をもつかぎりは,井の中にあるが,井の外に虚像をもたなければ,井の中にあること自体が,井の外とつながっている,という方法を択びたいと思う。
これは誤りであるかもしれぬ,おれは世界の現実を鶴見ほど知らぬのかも知れぬ,という疑念が萌さなではないが,その疑念よりも,井の中の蛙でしかありえない,大衆それ自体の思想と生活の重量のほうが,すこしく重く感ぜられる。
生涯のうちに,じぶんの職場と家とをつなぐ生活圏を離れることもできないし,離れようともしないで,どんな支配にたいしても無関心に無自覚にゆれるように生活し,死ぬというところに,大衆の「ナショナリズム」の核があるとすれば,これこそが,どのような政治人よりも重たく存在しているものとして思想化するに価する。
ここに「自立」主義の基盤がある。
(『ナショナリズム』(筑摩書房, 1964, pp.7-54) の pp.49,50 )
|
わたしは,思想的立場というものを信用しない者なので,すなわち自分の思想的立場は自己欺瞞と区別つかないものだと考える者なので,吉本隆明が述べる自身の思想的立場を吉本の本気のようには受け取らない。
わたしは,上の一節に,吉本隆明の<引っ込みのつかなさ>が自身に強いる<窮屈>を,見てしまう。
なぜ「大衆」か?
反抗する者として自らを立てようとする者は,自分が反抗しないものを併せて立てることになる。
──それをしなければ,「何でも反抗する者」になってしまうからである。
吉本隆明は,<自分が反抗しないもの>として「大衆」を立てる。
「大衆」を立てることは,無理を立てることである。
吉本隆明は,この無理を立てて自分を窮屈にする。
反抗する者として自らを立てたものは,自分が反抗しないものを併せて立てることになり,そして自分が立てた<自分が反抗しないもの>のために,窮屈な立場に陥る。
窮屈は,反抗することの罰である。
反抗するとは,この罰を甘んじて受けることである。
|