Up 「学年指定・クラス指定」に騙される 作成: 2010-02-26
更新: 2010-02-26


    同一科目の授業を複数のクラスに分ける場合,受講者数に不均衡が出てくる。
    このとき,これをアタリマエとする者と,これを正さねばならないとする者の,2タイプが出てくる。 そして,後者は,「学年指定・クラス指定」の声がどこからか上がってくると,それに同調していく。

    「学年指定・クラス指定」は,成功しない。
    科目履修での学生の流れを損ない,陰で「特別措置」を常態化させ,本末転倒した「公平」観を醸成し,人品を卑しくさせていく。
    そしてそうなったとき,「受講者数の不均衡」とこれのどっちがマシであったのか?と振り返ることになる。 ──「受講者数の不均衡は,アタリマエとして受け入れるべきであった。

    「学年指定・クラス指定」の声への同調では,「学年指定・クラス指定」の含意を自ら計算しシミュレーションするということは,やられていない。 「学年指定・クラス指定」を言い出した者がこれをやっているのだろう,と当て込むのである。
    しかし,だれも,この計算・シミュレーションをやっていない。 やろうとしたところで,系が複雑過ぎて,無理である。

    「学年指定・クラス指定」は,これの含意の計算・シミュレーションがなくて,声が上がる。 どうしてこのようなことが可能になるのか?
    始めれば何とかなる」の思考様式になっているのである。

    ちなみに,国立大学の「法人化」では,「始めれば何とかなる」を嫌というほど見せられてきた。 理の当然として,「何とかなる」にはならない。 そして,赤ん坊に物が壊されるように,大学の大事が壊されているのである。