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柳田国男 (1911)
『松屋筆記』巻六十五に曰わく、
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関東にて筬を造る者を久具都と呼ぴ平民おとしめ思えり。
これ古の傀儡の類にて、住処不定の者筬を売りあるきたるなるべし。
その子孫民間に雑処するを賎しみて平民縁などを結ばざるなり。
陸奥岩城辺にてはこれを「筬かき女」と称す。
橋辺空間の地などに家居し、筬を売りありきてその料に米銭を乞うなり。
米袋を持ちありくゆえに乞食に似たりとなん。
『梅花無尽蔵』巻三ノ上に
二日 透過梭師之桟 登三国之岳
云々とあり (以上)。
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右の梭師の桟は地名なれど、あの時代においてすでに梭を作る者をクグツと呼びし立派なる一証なり。
筬または梭と前に挙げたる箕、ササラなどとは物は異なれども、得やすき山野の材料により鋭利なる刃物を利用して手工をなすは相似たり。
次に「筬かき女」の袋はまた注意を要す。
米銭を入るといえばこの麻布などにて製せしものならんが、クグツに袋は昔より附物なり。
今日にても米穀などを貰うことなき都会の乞食にてもなおこの一物を所持せざるなきはまったく年来の由緒あるがためにして、要するに漂泊生活に便利なるためなり。
しこうして昔の、袋は布製にはあらず。
『和訓栞』にはクグツまたはテクグツの語はもと傀儡の文字とは関係なしとし、『袖中抄』等を引用してクグツとはクグと称する一種の草にて編みたる袋のことにして、この徒の必ずこれを負いあるきしよりの名なるべしといえり。
これは小事ながらクグツが袋を負いしこと、大国主神の絵のごとくなりしとは信じがたし。
袋の用は物を携うるために手を煩さざるにあり。
ゆえに多分はこれを首より胸に掛けまたは腰のまわりに結び附けしならん。
『万葉集』巻三の
「しほひのみつのあまめの くぐつもち
玉藻苅るらん いざ行きて見ん」
という歌など思うべし。
さてこの歌の『万葉抄』の解にもクグツは細き縄にて作れる物入れにて、田舎人の持つ物なりとあり、
『万葉註疏」にはさらにこれに附加してクグツのツは苞の義ならんと言えどこれはなお疑いあり。
またその原料もクグツすなわち現今東京にてクゴ縄など称するクゴを用いしことは、いまだ明らかならずとしても、とにかく袋の一種にクグツと称するものあること、及ぴクグツが古くより袋を持ちたりしことは疑いなし。
『融通念仏縁起』中に画きたる鉢叩も腰に編みたる袋を下げたり。
この徒も宗教を衣食の種としかつ中古は漂泊の生涯を送りしがごとく、しかも茶筅を作りてこれを鬻ぎしなど幾分クグツまたはサンカと似たるところあり。
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- 引用文献
- 柳田国男 (1911) :「「イタカ」および「サンカ」 (二)」, 人類学雑誌, 1911
- 『柳田國男全集 4』, ちくま文庫, 1989.
- 『サンカ──幻の漂泊民を探して』(シリーズ KAWADE 道の手帳), 河出書房新社, 2005. pp.136-153.
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